村の名前:伊万里市山代町峰

話者:山浦布治雄(昭和2年生まれ)

嗣査者:後村政治

<小字一覧>

峯(226)、成原(225)、川ノ上(231)、北切寄(232)、狩場(230)、浦野(223)、大藤(222)、西山(227)、西田(228)、柴原(221)、向平(220)、越差(213

<しこ名一覧>

・田畑

小字峰(226)のうちに

カミ(上)単に土地が高い位置にあるのでついたらしい。

ジョウミネンタニ(城峰谷)

城というとなりの地区との問にある谷なので

ついた名。

フナゴヤ(船小屋)

昔はこの地区のあたりまで海があったらしい。

オ(御)サキ

ついた理由はよく分からない。

小字狩場(230)のうちに   マエダ(前田)

小字成原(225)のうちに

・山

小字浦野(223)のうちに

マードンハカ(間戸基)

間戸とは炭坑の入口のこと。

ノボリアガリ(登上)

ウボヤマ(乳母山)

気になるが、名前の由来はわからなかった。

小字西山(227)のうちに

ヤズマ

ウイデゴー(大井道口)

井道とは水路のこと。つまり大きな水路の出口。

小字西田(228)のうちに   コウラ

 

<古老に尋ねてみたこととその答え>

50年前の主食について

 50年前も主に食べられていたのはやはり米だったそうだ。しかし米ばかり食べていたのではなく、米が不足した時はサツマイモや、ジャガイモ、カボチヤなどを食べていたそうだ。麦もよく食べたそうで、団子にするとおいしいそうだ。ヒエや粟という言葉がでてこなかったのは意外な気がした。

・種もみをネズミから守る方法について

 大掛かりに何かをしたということはないそうだが、木でできた箱に種もみを入れているとネズミが木の部分を囓って中に入っている種もみを食べてしまうことがあったそうで、それを防ぐために木でできた箱の内側にトタンを貼りつけてネズミが囓らないように防ぐことがあったそうだ。また、たまに薬をまいてネズミや害虫から種もみを守ったり、かめに入れて保存することもあったそうだ。

・村に入って来た様々なものについて

 まず、村に初めて電気が入ってきたのは戦前のことだそうだ。私はもう少し遅いかと思っていたのに意外と早かったので驚いた。しかし戦前に入った電気も戦争のせいであまり使うことはできなかったそうだ。

 つぎに来るときに鉄道が走っているのを見かけたので、鉄道が整備されたのはいつか尋ねてみると、昭和5年のことだそうだ。

 村にプロパンガスがはいったのはだいたい昭和20年代戦争が終わって少したった頃だったそうだ。それまでは五右衛門風呂に入っていたんですかときいてみると、そうではなく、石炭釜という石炭を使って湯を沸かす風呂に入っていたということだった。五右衛門風呂にあこがれる私としては、少しがっかりしてしまった。

・干ばつと、その対処について

 最初に1994年の大干ばつについて尋ねてみたところ、水道(飲み水)については特に問題はなかったそうだが、水田の水は端の方の田から水がかれてしまって収穫できなかったそうだ。

 つぎに今まででもっともつらかった干ばつの体験について聞いてみると、一番つらかった年は昭和10年か11年の干ばつだったそうだ。その時は水道も車備されていなかったために飲み水さえもろくにないという過酷なものだったそうだ。話すときの山浦さんの表情からもそのつらさが楽に想像できた。その時代は対処するといってもろくなことはできず、センバダキを行うことぐらいだったそうだ。そのセンバダキとは、村の人みんなが山のうえにのぼって、火をたき、雨が降るように願うという神事だそうだ。昭和の初めという時代にこのように原始的ともいえる方法で雨乞いが行われていたというのは驚きだった。神にすがるしかない程の干ばつは、私の想像をはるかに超えたものかもしれないと思った。山浦さんの話によると、この時代にはセンバダキのような神事がほかにも多く行われていたそうだ。

 それから30年ほど経った昭和40年頃には村の人々の協力によって簡易水道ができて干ばつの恐怖も少しは和らいだそうだ。

・村と炭坑について

 村に簡易水道ができたのは干ばつの恐怖からだけではなかったそうだ。この近くの地域には昔から炭坑があったそうで、その炭坑による地下水の汚染があったそうなのだ。やがてこの地域周辺は鉱害に汚染された地区として指定され、地下水は簡易水道にかえられた。

 しかし炭坑は村に悪いことばかりをもたらしたのではない。村の人に農業以外での収入はどのようなものがあったか聞いてみると、ほとんどの人が炭坑で働いていて、会社勤めをしていた人はあまりいなかったそうだ。

 峰地区のメインストリートであるヨコマチに囲まれるようにしてある前田堤のほとりには、この地区が鉱害指定地域に指定された事を記した碑がたっていた。

 いい意味でも悪い意味でも炭坑と深く結びついた地区だったんだなあと思った。

<一日の行動記録>

十一時過ぎ頃  楠久郵便局の前でバスを降りる。

移動

相当の暑さだった上に担当の地域まで結構歩かなければならなかったので最初の歩きでつかれてしまった。

十二時頃

山浦さん宅では昼食の時間だったようなので自分も近くの神社で昼食を

取ことにする。

十二時四十分頃 山浦さんの家にうかがって話を聞かせてもらう。

住宅地図が役に立って山浦さんの家までは迷わずにいくことができた。

一時半頃    山浦さんの家を出る。

一時半から他の村の人からも話を聞くためにさまよい歩く。

村には人気がない上にたまにあっても相手は車上だったりして結構苦労した。結局聞けたのは三四人だった。

二時半頃    歩き疲れのせいか、精神力の衰えからか、それ以上聞いて回るのをあきらめてぶらぶらとバスの乗り場へ歩き出す。

三時半過ぎ頃  バス乗り場に到着。

<感想及び反省>

 率直な感想は疲れたの−言につきる。乍月周日は非常に暑い−日だった上に、一日中歩き通しだった。しかし自分で考えながら休憩を取ったりして健康管理できたことは良かった。道に迷うことも吋度もなかった。

 調査の内容からいうと、あまり深い調査にはできなかった気がする。その−番の原因は事前調査を充分にやっていなかったからだと思う。もう少し自分のいく予定だったところの調査を念入りにやっていたら地元の方のおっしやることが良く理解できていい内容のレポートができていたとおもう。

 私がこの地域で最初に訪れた山浦布治雄さんは、代々庄屋さんの家だそうで、今も区長をしていらっしゃる方だった。この方はこの峰地区周辺のしこ名を残そうと努カしていらっしゃる方で、歴史保存会(?)のメンバーでもあるそうだ。現在私たちが授業でやろうとしていることをやっているということだった。だから峰地区のしこ名は結構すらすらとでてきて私にとってはとても助かった。

 



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