歩き、見、ふれる歴史学 1EC98168山口峰頼 1EC98175 渡大樹 ☆調査場所 佐賀県伊万里市山代町楠久周辺 ☆聞き取りをした人 伊万里市区長連合会副会長・山代町区長会会長・山代楠久区長 中島章さん(74) 自分たちは調査場所である山代町楠久の区長をしていらっしゃる中島さんを訪問しました。この方の話によると、楠久は江戸時代まで海の入り江だった所で、明治期より干拓事業が始まった、比較的新しい所であるため、田のしこ名はあまりない、ということなので、自分たちは楠久だけでなく、山代町全域の地名の由来、また、中島さんは歴史について非常に詳しい方だったので、歴史についてもいろいろと教えていただきました。 山代町には古来より「山代富士」と称賛されてきた『城山』という山があり、840年昔、飯盛城が建てられ、430年間山代氏が本拠としてきました。この近くの谷を流れる川は『烏洗川(モリャゴウ)』と呼ばれ、この名は、川で馬を洗っていたのでこの名が付いたという説と、佐賀の龍造寺軍が進攻してこの川の上流をせき止めたので、飯盛城の山代勢は苦境に陥り、万策の果て、兵糧の米を使って、水しぶきならぬ米しぶきで、馬を洗い、馬の尻尾で水が飛び散って、水に困っていない偽装により敵を欺くことができました。しかし、後日、川には水はなく米が散乱していることを敵の知るところとなり敗戦の禍根を残す結果になったとの伝説から『馬洗川』 と称し、この一帯の地名も 『馬洗川』と命名されたそうです。 また、楠久の近くには周辺の山々から材木を切って集めたということに名前の由来のある『切寄(キリヨセ)』という堤がありますが、この場所も佐賀の龍造寺軍が山代氏の本城、飯盛城に向かって進攻した時の伝説が残る古戦場跡です。龍造寺氏は天正4年(1576)晩秋に飯盛城へ向けて進撃を敢行すべく、軍勢を集結させていました。山代勢も飯盛城天然の防塁である『城』地区へ大挙し、戦機の熟するのを待ちました。総攻撃の日が近づいてきた山代勢は武運を神と代々の霊位に祈り、猪の肉を焼いて肴とし、洒を酌み交わして決戦にそなえました。現在も城では12月4日に、これにちなんだ「ゴクウサン」という伝統行事が霧寄大明神で行われています。かくして、龍造寺・山代両軍による総攻撃が開始され白兵戦が展開されました。山代勢はこの地区で善戦し遂には無数の屍が塁をなし、そこにあった池が血で染まったといわれ、その池が現存する 『切(斬)寄の堤』で、堤の下方田んぼの中に残っている小山はこの時の戦死者を葬った千人塚です。霧寄神社はこの時の戦死者の霊を奉った社が堤の側にあったそうですが、現在は古戦場跡を一望できる 『城』地区に移転してある、「霧(切)寄大明神」です。また、『峰』の『狩場』は前記の猪を捕獲したところで、『城』の『腹千場』は戦死者の氏名を確認するため一時収容したところからこれらの地名が付いたと伝えられています。 他の山代氏にちなんだ地名として、山代氏の牧場があったということからその名が付いた、当時は伊万里湾に浮かぶ島であった『牧島』というのがあります。昔から山代町の一部として扱われてきましたが、山代町とは反対側の海岸と地続きとなった現在ではそうではありません。また、「山代」という名は、山代郷の山背が山代氏のふるさと、京都山城の山の姿に似ており、懐かしさのあまり、山城に代わる「山代」を称するようになったということです。 山代町久原地区に『小島』 という、以前は陸地から約400メートル離れた孤島で、現在伊万里湾総合開発で、海を埋め立て工業団地化し、陸続きとなっている島があります。大きさは東西200メートル、南北100メートルの椿円形で、最高地点は島の中央部で海抜28メートルです。この島には、項上に「鬼の岩屋」というはら穴があるとか、小西行長の一族が、開ヶ原の戦に敗れ、玄海で海賊となり 『小島』を本拠地としてこの岩屋に住んでいた、という伝説がありました。しかし、この「鬼の岩屋」は実は、6世紀後半ごろ築造された古墳で伊万里市唯一の学術的に価値の高い前方後円墳です。古墳は主軸を東北東にとり、その長さは43メートルです。前方部の最大幅25メートル、くびれ部幅16メートルで、後円部の直径は22メートルです。墳丘の高さは5、2メートルで、築造当時の原形をよくとどめています。この古墳の被葬者は記録も伝説もなく不明ですが、前方後円墳であることから、大陸遠征に従事した大和朝廷に関係のある海人族の首長であろうと推察されています。古墳は昭和51年2月佐賀県史跡として重要文化財になっています。 他の山代町の伝託にまつわる地名として、立岩地区の佐代姫伝説にちなんだ地名というものがあります。松浦佐代姫の伝説は、鏡山を中心に唐津付近を舞台にして、多くの人々に知られ有名ですが、伊万里湾沿岸、特に山代町立岩地区浦の崎にある佐代姫神社にまつわる伝説は前のものにさらに輪をかけたようなものが言い伝えられています。「佐代姫は狭手彦の船を見送って鏡山の山頂で領巾を振っていたが、船が島影に隠れると半狂乱の如く山を駆け降り、舟子たちをあつめて、夫の船を追いかけるよう懇願した。出帆はしたものの、次第に荒れてくる嵐のため疲れ果てた舟子たちは、沖の小島にようやく漕ぎつけて逃げさってしまった。船に一人残った佐代姫はあらん限りの声をあげて泣き続けた。俄かに満風に帆を上げて舟は矢の如く走り出した。立岩付近は嵐の後には必ず魚群があつまる漁場であったので、漁師たちはこぞって魚獲の最中であった。このとき漁師の一人が沖の方から流れてくる漂流船をみつけた。早速漕ぎつけてみれば、中に若き貴婦人の亡骸があった。漁師は、沖からくるあらゆる物は幸をもたらす前兆だといい、死体は丁寧に収容することに一決し、形見の衣装と船中にあった壷は記念のため保存することにして、海岸に塚を築き懇ろにこれを葬った。(杜会保険浦之崎病院の中庭に現存)」、後にこの女性が佐代姫であることがわかることとなり、葬った塚に社殿を造築したものが今の佐代姫神社であり、この由緒にもとづいて、この付近を字『佐代田原(タバル)』、『佐代搦(ガラミ)』といい、ここのかたわらを流れる川を佐代川と名付けたと伝えられています。 楠久の近くに 『鳴石(ナルイシ)』地区というところがありますが、ここは読んで字の如く海岸に鳴る石があったためこの名が付きました。また、この『鳴石』地区の中の地名に『坂田塩田(サカタエンデン)』という場所がありますが、ここは、やはり塩田があったところですが、江戸期ぐらいまでは塩を天日で乾燥させていました。しかし、明治になるとイギリス人のモーリス氏の力により、この楠久近辺で石炭が掘り出されるようになりました。このことにより、坂田塩田は従来までの天日乾燥から石炭を燃やし、その熱で塩を乾操させる方式へと変わりました。昭和期になると、楠久は石炭積出港として発展してきましたが、昭和30年代のエネルギー革命で石炭産業は没落し大打撃を受け、周辺の人口が減少しました。そしてもう一つ、 『鳴石』地区にあって、『坂田塩田』 の隣にある地名として『穴岩 または 保ヶ谷(ホゲイワ)』というのがあります。この 『穴岩または保ヶ谷』 という地名の由来は、この地区を通る道路の両端にいくつかの穴が開いているためにこの名が付いたといわれています。 はじめにこの楠久地区は以前海であり、干拓をして土地を広げていったと書きましたが、その海や干拓にちなんだ名前がのこっています。『四軒屋搦(シケンヤガラミ)』、『茅野搦(カヤノガラミ)』がそれで、この『搦』というのは干潟を意味する言葉で、『四軒屋』という地名は、この干潟を干拓した当時はこの地に家屋が四軒あったというところから付いたものだということです。そして、現在の 『楠久津』には藩政時代、伊万里津よりも水深があり好錨地であったため、佐賀藩と小城藩がこの場所に御船屋と御番所を設置していました。御船屋は、御船奉行が統督しその下に藩船を操縦保管するための御船手が置かれ業務に当たっていました。また、御番所は、楠久津頭に置かれ伊万里湾内通行する船舶を検問していました。今はその面影はありませんが、楠久津の皆さんはこの付近を『番所の端(バンショノハタ)』と呼んでいます。 以上のような山代町の地名にまつわる話や、歴史に関することを中島さんから2時間ほど話をしていただきました。しかし、話を聞くだけでは不十分だろうということで、午後になって車で山代町全域を案内していただきました。まず、高いところから一望してみようということで、楠久後方の山頂にある『竹の古場』というところを目指しました。途中の景色もすばらしかったですが、山項385メートルの展望台からの眺望は見事でした。そこで中島さんにお聞きしていた場所などを、1つ1つゆびを指して託明していただきました。それから山を下り、山代町の端から端までを山の中腹を通って、また、下が見える場所で車を止め、説明をしていただきました。 中島さんには地名にまつわる話だけでなく、山代町の歴史についてもいろいろとおしえていただき、また、車で自分たちを案内までしてもらってとても感謝しています。その上、関連する資料を何冊かかしていただきました。これはこの資料を書く際に参考として活用させていただきました。地名や歴史などというものは、調べていくと意外と奥が深くおもしろいものだ、と実感することができて本当によかったです。 《参考にした資料》 1,「ふるさとの山河」 2,「山代の歴史」 (いずれも中島 章さんより) ≪地名一覧≫ 『城山』 『馬洗川(モリャゴウ)』 『切寄(キリヨセ)』 『城』 『切(斬)寄の堤』 『峰』 『狩場』 『腹千場』 『小島』 『佐代田原(タバル)』 『佐代搦(ガラミ)』 『鳴石(ナルイシ)』 『坂田塩田(サカタエンデン)』 『穴岩 または保ヶ谷(ホゲイワ)』 『四軒屋搦(シケンヤガラミ)』 『茅野搦(カヤノガラミ)』 『楠久津』 『番所の端(バンショノハタ)』 『竹の古場』 |