佐賀県伊万里市楠久

 

1EC98196 草野淳一郎

1EC98197  草場康文

 

 僕たちは、午前中は中島章さん、午後からは本光寺の、小島宗光さんのお話を聞きました。

 楠久(山代)は、鍋島海軍の軍港が置かれていたところで、この軍は長崎の出島の警備をしたり、黒田藩の警備をしていました。またこの時に使う船の材料にはクスノキが使われていました。また、クスノキは他には服の防虫剤などに使われるしょうのうの材料としても使われていました。

 干拓によって耕作用地を広げてきた町で、その耕作用地自体はあまり古いものではないためと、農業はそこまで盛んではなかったことから田についたしこ名というものはあまりないそうです。しかし田以外のしこ名は結構あり、それを中心に調べました。

 

○切寄(きりよせ)

 ここには堤があり、古戦場です。かつて、竜造寺軍が山代軍の本城、飯盛城へ向かって行進した時の遺跡があります。

 竜造寺軍はきたから、唐船城、鶴亀城を降し、次の進撃をこの飯盛城へ向けました。山代軍と、竜造寺軍はこの切寄で最終決戦をして、善戦しましたが山代軍は負けてしまい、その山代軍のしかばねが塁をなし、そこにあった池に血が流れ込み、この池は赤く染まったそうです。

 そしてこの「切寄の堤」で、堤の下方の田んぼの中に残っている小山は、このときの戦死者を葬った千人塚です。

 「霧寄(切寄)神社」はこの時の戦死者の霊を祀った社はそばにあったそうだが、現在は古戦場跡を一望できる城地区に移転している。

そしてこの池はこの地区の水源とされていたが、この水の使い道はほとんどが船を洗うためで、一般の家庭や田畑のために利用されてはいなかった。

 このお話を伺った本光寺が、むかし火事にあったとき、消火のためにこの切寄の池の水門を勝手にあけ、水を使用したところ役所からかなりの尋問を受けたそうです。これほど、この切寄の水は大切にされてきたわけです。

 城地区で行われている「ゴクウサン」という祭りは、このとき、山代軍が戦いの前に武運を祈り、猪の肉を焼いて酒を飲み交わし、決戦に備えたことに由来する伝統行事です。

 また、この地の由来は、切り出してきた木をこの場所に集めたというところから来ているそうです。

 

○坂田塩田(さかたえんでん)

 名前のとおり塩田があった場所です。この塩田の特徴は、海水を乾燥させる熱源に石炭を使っていたということです。

 この地方は石炭が豊富にあったところで、この石炭は、長崎出島からやってきたイギリス人の鉱山技師、モーリスにという人が最初に採掘を始めました。しかし、現在ではほとんどの炭鉱が閉鎖され、この地区の人口減少につながっているそうです。

 

○鳴石(なるいし、なるいわ)

 この地名の由来は海岸線に石があって、これに風が当たると音が鳴ることから。

 

○穴岩(ほげいわ)

 由来はこの地区にはj、たくさん防空壕のような横穴があいているから。

 

○馬洗川(もりゃごう)

 昔、山代氏と佐賀の竜造寺が戦った時に、竜造寺氏軍は山代氏軍に対して、水を断って勝とうとしたが、山代氏は川も本当は干上がっているのに、それを隠すために、川で米で馬を洗う真似をさせた。このことからこの川を馬を洗った川と名づけたそうです。

 

○後の浜、浦浜(うしろんはま、うらはま)

 由来は、ここに参勤交代や出島に行く時の船の漕ぎ手が住んでいたことから。

 

○堂前(どんまえ)

 ここにお寺があったことから。

 

○渡頭(ととう)

 海鮮問屋の道山又五郎という人がここに住んでいたことから。

 

○金辻(きんつじ)

 大商人の松本与左衛門が近くに住んでいて、このあたりでお金のやりとりが盛んに行われていたことから。

 

○番所の端(ばんしょのはた)

 ここに番所の出張所があり、そこで伊万里湾を通航する船舶の検閲をしていたから。

 

○小島

 この島の頂上には「鬼の岩屋」という洞窟があるとか、小西行長の一族が関ヶ原の戦いに敗れ、このあたりの海の海賊となりこの岩屋に住んでいたという伝説があるそうです。

 ここはしまに前方後円墳があるという珍しいところで、この古墳は、6世紀後半頃に作られたものだそうです。

 しかし現在は伊万里湾総合開発で、海を埋め立て工業団地化したため陸続きとなってしまいました。

 

昔の、このあたりの食品の保存法について聞きました。

 このあたりは米がとても貴重で、一般人はアワやヒエを食べていたそうです。ほかに保存食としては、唐こという味噌をつくるときの残りかすを天日に干し、ゴマ唐辛子を入れて焼いて食べるものや、しょうゆのみという、今で言うモロミのしょうゆから作ったもの。

 他には、漬物、もちや比較的一般人が食べやすい魚介類の保存食。

 カニは潰してみそにしたりする。魚は燻製にする。

 このあたりにはクド造りという建築法があったそうです。コの字型の住居で、雨水を使うために工夫されていて、その家のクド(かま)の上に燻製を作るための棚を作って、そこに食品を置いて燻製を作ったそうです。

 

 農業について

 この地方の農業のやり方は、かえ田という方法をとっていたそうです。ずっと同じ作物を同じ田に栽培していると土壌が酸性化していくので、これを防ぎ、土壌をアルカリ性に戻すため、旧作させたり、その田で栽培する人を変えたりして、作物や作り方に変化をつけさせ、少しでも収穫量を増やそうと努力したそうです。

 

○一覧表

 村の名前 : 伊万里市楠久

 話者   : 中島章さん

        小島宗光さん

 調査者  : 草野淳一郎(1EC98196)

        草場康文(1EC98197)

 

小字 大園(うーぞの)のうちに     祇園崎、大行事浜

   下馬場(しもんばば)のうちに   スズメ岩

   上馬場(かみんばば)のうちに   禅門谷

   楠久津(くすくつ)のうちに    番所の端、浦浜、後の浜、辻、渡頭、金辻、堂前

                   前平、上、御舟屋



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