【伊万里市大川内町甲(2)】 歴史と異文化理解A現地調査レポート 1TE98517 迫田康稔 ITE98534 高田智明
調査に協力して頂いた方々:前川 日司さん 飯田 亀次郎さん
7月4目土曜日 の現地調査の行動記録 8:00 バス出発 10:45 バス下車 11:00 古老の飯田亀次郎さん宅へ到着 自己紹介をする 11:30 お話が始まる 12:30 昼食タイム 食事中おばあさんにお話をしてもらい、私たちの質問に答えてもらう。また、地図に昔の通称地名などを記入した。 14:20 車で村むらを説明してもらいながら、実際に目で確かめる。 14:30 再び飯田さん宅へ戻り、お話の続きを聞く。 15:00 飯田さんに案内してもらいながら、お話の中にあった場所を確認する。 15:30 お礼を言って飯田さん宅を後にする。 その後、隣村の市村でお話を聞く 16:30 バス到着
それではここで収集した内容について述べることにしたいと思う。
<ハンヨウの里について> 有田地方で、焼き物の職人であるリサンペイが白色の焼き物石を砕き、焼き物にしたことがハンヨウの里のそもそもの始まりであったとされている。その昔、セイジ鉱と呼ばれる鉱物が大川内山のみにあったために、それに目をつけた鍋島藩はそのセイジ鉱から作られる焼き物を盛んにして、世界に送り出した。 また、鍋島藩は財宝を口外することを禁じ、名工であった副島勇七に秘宝が外部に触れることがないように監視させていた。しかし、その名工は秘宝を持ち出そうとするところを目撃されカセイというところで処刑を余儀なくされた。副島勇七の首はサンボウザカイ(昔使用されていた旧道のタキョウと大川内山ハンヨウ公園と伊万里の三方向の境)というところにさらし首としておかれた。(この副島勇七の話は、飯田さんが何度も強調された話なので紹介した)
<市山の歴史について> 私達が訪れた市山付近は今からおよそ5000年から2000年程前は海辺であった事が言われているが、それは50年程前に粘土層の中から貝殻の化石が見つかり、その化石は一ヵ所にかたまっておらず村に散らばって見つかったためである。 文化文政時代、イチノセヤマ(市野瀬山)は、300世帯の部落を持つハンヨウの里として栄えていた。市野瀬山やさやのせという地名は「瀬」の名残である。大川内町一帯の二シノタニ(西の谷)は奥地にフリュウがあり、また、部落同士では4年に一回の交代制を用いて様々な取り決めを行いよくまとめているが、ヒガシノタニ(東の谷)は西の谷のようなものはなくまとまりがない。西の谷と東の谷はお互い仲が悪く大川内町に大川内小学校を作り直すときにも場所の話し合いがつかず、どちらも譲らずに何十年もかかったという。 昔は栄えていた市山であるが今では衰退への道をたどっている。その市山が衰退したのは主に4つの理由がある。まず第一の理由として、窯を焼かなくなったことが挙げられる。次に第二の理由であるが、それは燃料不足のためである。今はガス(LPガスなど)があり、それ以前は石炭でやりくりしていたが、昔は燃料不足には悩んでいた。それから第三の理由として、有田の原石がハンヨウ以外には指定されなかったことが挙げられる。有田の原石は有田から持ってきて土にしていた。これはハンヨウで窯業にはかかせない必需品であったが、他の地域は使っていなかったので全体的には需要がなかったのである。第四の理由として、焼き物を作る人の不足、つまり後継者不足が挙げられる。市山は昔から山がちな地形で立地条件が悪く狭かった。そのためヒラオ(平尾)に窯業団地ができると、そちらに人々は移住していった。また、産業構造の変化や若者の都市への流出のために村を出て行くものが相次いだ。
<市山の地理について> 市田は以前は、カミグミ(上組)、ナカグミ(中組)、シモグミ(下組)、シミッダングミ(清水谷組)、ヒガシノタニグミ(東の谷組)のように組で区分けしており、交代制で公民館を掃除することになっていた。 この他に部落をさらに区分けしてそれぞれシュウジ、オモテ、ミヤンモト、シミッダン、カマンマエと呼んでいた。 現在の市山公民館は昔アンデラ(寺)であり、その奥には33体の観音様がまつってあり、今は観音山と呼ばれている。
キョウゲンバ 明治終わりから大正の初めにかけて狂言、サイモン語りや浄瑠璃をしたり、下方では弁当を広げて楽しんだ。今で言うところの祭りである。 墓地 ジュツゲン 窯跡 ヒノタニカマアト(日谷窯旧)、コウライジンカマアト、シンガマアト 橋 テンジンバシ、アンスバシ(杏子橋) 川 ヒガシンタン(東の谷川)、ニシンタン(西の谷川) {川と地名が分かるように発音にはこだわっているそうだ} 田の原のことをチャーバルと呼ぶ。
<水利について> 2、30年前から、市山の人々は飲料水としてシミッダン(清水谷)を利用していた。バケツに1日の必要な飲料水だけを汲み取り、かめに移し替えて生活していた。コーヒーなどもこの水を利用して作った。1994年、つまり4年前の大旱魃のときもシミッダンが尽きることはなく水不足の心配はなかったということである。以前はあふれるほど豊富にあったのだが、木の伐採のため保水力が低下したり、水道水の普及のために使用回数が減り今では水の出が少なくなっている。 また、農業用水としてはツツミの水を利用している。この水は市山、市村で共同使用しているが、水利権・管利権はともに市村が有している。市山は農業用水としてだけではなく水道水としても使用していたが、水道水の普及で今は使用していない。
<税金について> 市山、大川内山、クロホウ山などのように「山」がつく村は、焼き物を作っていたため税はお金で納めていた。対して、市村のような「山」のつかない村は農業であり、焼き物を作っていなかったので米を税として納める物納であった。さて、納税の仕方であるが、入り口に関門所があり、そこを通過する際に焼き物や土を検査してそれに匹敵する金を納めたり、物納の村人は米を納めたりしていた。
<米について> 米の保存法であるが昔はドラム缶のような大きな缶に入れて保存していた。明治、大正から現在にかけては米専用の布の袋に入れて大きな倉庫に積み上げて保存しており、そこから個人で物納のための米や、食糧としての米だけを取り出していた。また、ねずみの被害や湿気などを防ぐために高床式倉庫を利用している。平地の収穫量は反当り 8ないし9俵、山の方では反当り 6俵とれ、良田悪田は区別できないほど平均的によくとれていた。 米作りには、区画整理や屯田しゅうじの法が用いられた。
<しこ名について> 私達はしこ名を探し回ったが、飯田さんもご存じご存知なく農家の方に聞かないと分からないということなので農家を訪ねようと試みたけれども、今の市山には農家が一軒しかなく、その農家の方も当日は不在であったために、しこ名をみつけられなかった。そこで危機感を感じた私達は調査村の隣村ではあるが、市村の農家に聞いてみようということで訪ねたところゴホンダン、ハッタンマを教えてくださった。
<村のこれからについて> 市田はこれまで焼き物の里として今日までに至ったが、窯を焼かなくなったこと、燃料不足、有田からの原石の不足、後継者不足から焼き物が衰退した結果、住人は年寄りばかりになり、発展は難しく、部落がなくなるかもしれないという状況に至っている。交通においても、ため池があり、行き止まりばかりでとても不便である。交通が便利であればひょっとしたら発展するかもしれないが望みはない。それは伊万里市が窯業として栄える大川内山ばかりにお金をかけて市山にはお金をかけようと思っていないからである。要するに、お先真っ暗なのである。
<資料について> 今回私達は飯田さんに貴重な資料をいただいた。それは「大悲庵の芭蕉句碑」である。この資料もレポートとして加えたいと思う。調査日が平日であったならば、より多くの資料が手に入れることができたと、飯田さんは嘆いていらっしゃった。 また、「市野瀬山」と題する石碑に書かれていたことを下に記す。ただし、*は文字が不鮮明だったところである。
市ノ頻山 鍋島藩は泉水陶石の使用を有田皿山代官管轄下の内山外山の皿山に限定しこの掟は明治以降も守られた。十区は皿山の旧有田町で外山は外*山、黒牟田山、*法山、南川原山、*頻山、大川内山、市ノ瀬山の七山である。
<総代> 岩崎 久兵衛 飯田 市太郎 大串 芳蔵 大串 幸太郎 竹下 勝七 前田 鉄蔵 大串 辰次 大串 藤左エ門 宮崎 重蔵 原 友五郎 大串 鹿蔵 大串 虎十 大串 和惣次 大串 伝四郎 原 伊之助 |