【伊万里市大川内町甲(1)

歴史と異文化理解(A)現地調査レポート

ITE98646 山崎 洋揮

ITE98607 前原 泰成

1TE98656 米本 孝二

 

話者:川内 忠さん ;昭和128月生まれ

  前川 一男さん;昭和85月生まれ

 

村の名前:大川内町甲3340

字:

三本松 四本松 五本松

五本谷の一 五本谷の二 五本谷の三 五本谷の四

谷馬込一 谷馬込二

一本黒木 二本黒木 二本黒木二 三本黒木 四本黒木

馬込 東谷 堂の谷 木ろ川内 板ノ平

狩立(明治時代の区画整理でできた)

 

通称(しこ名):

シモウ(下) カシヤマ(樫山) ヒノタニ(火の谷;焼き物をするための釜があった)

ハッタンマ(八反間) カジヤ(鍛冶屋) コウクボ(河窪)

オザキ(尾崎) コザカ(小坂) ウノタニ(庵の谷;現在はないが寺があった)

シノハラ(下ノ原) ウヤマ(大山) ゲンタカ

ニドウ(二堂) ヤキヤマ(焼山)

サヤノセ(道祖瀬;道祖の神がある。どこにでもあるらしい)

 

使用している用水源

杏子川

山水

 

共有している村

市村、小石原、岩、谷;以上四つの村

 

昔の配水の慣行・約束事

あまりない。上流側からためていく。

 

昔の水争いの有無

昔は、田の水争いがしょっちゅうあった。山の斜面に作られた田では上の田から下の田へと水が流れるため、上の田の人が水を塞き止めると、下の田へは水は流れない。自分勝手な行動が招いた争い。

 

旱魃:

30年前:旱魃になるとなす術がない。米もとれない。9ケ所ぐらいため池―堤があったが、旱魃時はこれを巡って―争いが起こった。

1994年の旱魅:個人がポンプを買って、川から水をどんどんくみ上げた。しかし、ポンプがない家は干害をうけた。水争いも少しあった。干害にあったところは、救済金がでた。

 

米の保存:

昔は、丸いブリキで作った缶に保存した。米に虫がつく(虫の糞によって米が数粒ひっつく)と天気のいい日に縁側とかに干したり、そこを捨てたりした。

今は、30kgの米を防虫剤入りの袋に入れており、殆ど虫がつくことはない。

 

収入源:

昔は、殆どが米。二毛作(麦、菜種)もしていて、売った残りは、自分の家で食べていた。そして、機械の無かった当時は、一軒につき一頭はいたという牛、豚、鶏などの家畜も飼っていた。この家畜の糞が肥料にもなっていた。

農家の生活は、かなり苦しいものだった。

ガスは無かったので裏山で取ってきた、まき板、薪、べご、麦わらで米などを炊いていた。しかし、まき板や薪はもったいないので、売っていた。

 

村のシステム:

一反あたりの掛け金をきめる。良田(小学校付近が、湿田で非常によく米がとれた)から一等田、二等田、‥・、五等田と下がるにつれて掛け金も下がる。そして、3月に徴収してその掛け金をもとに村の運営(道路を作ったり修理したりする)をしていく。市村では、3500円/一反。

 

村のこれから‥・(農業)

村の農家は山間部というところもあり、すべて兼業農家になってしまい、もう農業だけで生計を立てている家は無い。また、米を作っても採算が合わないため、自分の家でのみ食べる分だけ作って、余れば農協に売ることにしている。しかしながら、作る人も年をとってきており、農作業が難しくなっている。いつかは誰かに作ってもらわなければならないが、作る人(若人)がいない。どんどん市村の農業は衰退していくだろう。日本の農業も同様に衰退していくのではなかろうか。

 

現地調査の報告と感想    1998年 7月 4日(土)

7月4日の土曜日に、山崎洋揮、米本孝二、前原泰成は、かつてのタンナカに付けられていた通称地名や屋号、谷や川の名前、昔の水利のありかたや慣行、古道のありかた等を調査するために、佐賀県伊万里市大川内町市村の川内忠さんを訪ねることになった。当日は、快晴で気温も高く、調査するのはかなり苦労するであろうと思われた。が、実際は、それほど骨を折ることもなく、スムーズに調査することができたのでホッとした。

大川内町のバス停近くで大学のバスを降りて、住宅地図を広げて、川内忠さんの家に向かおうと歩き出したところ、川内忠さんが車で迎えに来てくれていた。親切な人だ。川内さん宅に着き、早速お話を伺おうと玄関で待っていたところ、川内さんは自分達3人を冷房の入った部屋に招いて下さった。そして、タンナカに付けられていた通称地名をファイルからリストアップして下さってもいた。非常に有難いことだ。

月曜日に川内さんに依頼のお手紙を出し、木曜日に確認の電話を川内さん宅に入れたところ、電話がつながらない。どうも川内さん宅には電話を置いていないようであった。前もって手紙を出していて正解だった。

川内さんからお話を伺い始めて程なく、前川一男さんが現れた。前川さんは、大川内町のタンナカについて詳しい方で、今日のために川内さんがわざわざ呼んで下さったのだそうだ。川内さんと前川さんの2人からお話を伺うことになった。2人共村のことに関しては相当熟知しておられたのが、話しぶりから分かった。川内さんは昭和12年生まれ、前川さんは昭和8年生まれだそうだ。2人からお聞きした内容は、報告書で詳しく述べることにして、ここでは1日の行動記録と感想を述べることにする。

以後、しばらくの間、質問攻めで、村に関してあらゆることを聞きまくったが、2人共地図や資料を活用して丁寧に教えて下さり、大変助かった。非常に有難いことだ。一通りの質問、返答を済ませ、最後に川内さんと前川さんに、これからの日本の農業の将来の展望について、お話を伺うことに3人は成功した。2人の意見は、日本の農業の将来はない、お先真っ暗だ、ということで一致した。

前川さんには、1人息子さんがいらっしゃるそうだが、息子さんは既に福岡で働いていて、農業を継ぐ気はないのだそうだ。前川さんが元気なうちは、農業を継続させることはできるが、そのうち他の人に頼んで、自分の田の米作りを続けていってもらうのだそうだ。今の日本の農業のほとんどが、兼業農家であるが、米作りは採算に合わないのだそうだ。川内さんも前川さんも笑いながらこのことを話して下さったが、心中はかなり複雑な思いであったのではなかろうか。田に詳しいということは、それだけ田や米作りに対する愛着も強いものだと思われる。(あくまで推測だが。)私自身も日本の農業の将来に望みはない、などと言われると、非常に残念な思いがする。

余談になるが、私前原泰成もその昔、田でザリガニやオタマジャクシなどを捕って、友達と遊んでいた楽しい思い出がある。しかし、よく考えてみるとあれは田ではなく、池だったような、川だったような気もするが、はっきりとは思い出せない。実家はわりと田舎の方にあるので、田や畑もけっこうあった。しかし、最近は米作りをする農家も滅ってきて、田や畑も少しずつ消滅していき、代わりに住宅地やスーパーなどが建ち始めている。やはり田がなくなっていくのは寂しいものだ。

日本の農業に将来はないということだが、農業だけでなく、日本の国自体に将来がないような気もしないでもないが、まあ、あまり暗く考えても仕方がないので、前向きに考えることにしよう。

川内さんと前川さんの2人にお礼を言い、川内家を後にした。比較的時間があったので、JRを利用して無事に福岡に帰ってくることに3人は成功した。



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