川内野のむかしの様子に関する聞き取り調査

志水奏太

曽根川純也

 

調査にご協力いただいた方のお名前‥松本啓吉さん

 

目的

 失われつつある通称地名、忘れられつつある昔の村の姿、記憶について、お話を伺い、記録し、後世に残す。また、調査を通して昔の人々の意識、生活に触れる事により、自身の将来や、これからの社会のあり方について考える。

 

調査内容

 627日、佐賀県伊万里市東山代町川内野のとある公園の近くでバスを降りた私たちは、先方と詳しい待ち合わせの連絡がとれていなかったためどうなるのかと心配していたところに、平川さんが話しかけて下さいました。そうして平川さんに公民館に案内していただき、公民館の外で盤宮出雲先生頌徳碑がありました。この石碑にその名が刻まれている出雲盤宮先生という人物は川内野のとても偉大な人物であり学才に非常に秀でた方であった。先生は安静二年五月十一日に生まれ、幼い頃から類稀なる学才を発揮し、九歳にして漢学を修め、その後朱子学を学んだという。その後明治八年に教師となり二十年あまり教員として働いた後、私塾を開きこの地方ではとても有名であったそうです。

 その後、松本さんがいらっしゃり、私たちは公民館の中へと案内していただきました。以下に、そこでお二方から伺った内容をまとめてみたいと思います。

 

1、 生年を教えてください。

 昭和21年です。

2、 地図に載っている字(あざ名)を教えてください。

 中田代、出口、三本松、中尾原、山犬川、柳谷、善道、北古場、高原、日渡、

 形人田、栗山、柳谷、黒谷、日南川、水の元、松菓、平原、妙福治、岩の下、

 大谷、山口、田上、藤川、神の門、灰木の久保、大古場、布落、オ川内、角

井、長谷、清水、永山、山の寺、木綿川

3、 若い人たちはこのような呼び方を知っていますか。

 現在も使われている字(あざ名)は、若い人たちも使っています。

4、 長崎との県境は何ですか。

 川です。

5、 地図上で地名がないものは何ですか。

 国有林があるところです。

6、 この地域の田んぼに通称などはありましたか。

 高原の地域の田んぼを屋敷谷と呼んでいました。

7、 その呼び方を知っている人は今はどう呼んでいますか。

 昔の呼び方を使うこともあります。

8、 変わった地名はありますか。

 前田と言われていた所が平原になりました。

9、 山の中に田んぼはありましたか。

 昔は山の寺から下はずっと田んぼでした。

10、田んぼの水はどこから引いていたのですか。

 山寺池などのため池から引いていました。

11、現在田んぼはどうなっていますか。

 昔は約80ヘクタールあった田んぼが今は60へクタールを切って約3分の1になってしまいました。

12、野焼きはしていましたか。

 23月ごろにしていました。杉などを植林してしまったため、水の保全ができなくなってしまいました。

13、この地域の川の名前は何ですか。

  宮川、山犬川、屋敷川

14、川の名前が地図にないのはなぜですか。

 圃場整備をしていないため川として認められなかったからです。

15、川による災害はありましたか。

 下流で川の水が排水路にあたってあふれ氾濫したことがありました。

16、川にいる生物を教えてください。

 ドンコ、ハヤ(現在も多い)、モズクガニ、ウナギ、ナマズ、ハゼ

17、減った魚はいますか。

 アユが昔はよく川を上っていたが現在は大きい井堰ができてしまったためにほとんど来なくなってしまいました。

18、なんという井堰がありましたか。

 高取、二升田、大井手などがありました。

19、田んぼの利用にルールはありましたか。

 特にはないが、ため池係がいました。

20、山の寺池はいつできましたか。

  昭和13年です。

21、炭鉱はありましたか。

 長崎県にはあります。その炭鉱でこの地域は公害がありました。

22、水争いはありましたか。

  ため池の水争いはよくありました。

23、ため池による災害はありましたか。

 豪雨でため池が決壊して水が氾濫したことがありました。

24、病虫害はよくありますか。

 この地域は谷なので虫が通り過ぎることもあれば落ちてくることもありま

  す。

25、田んぼでの作業はほかの家と協力していましたか。

  田植えを一緒にしていました。

26、田植え唄はありましたか。

  この地域ではありませんでした。

27、この地域特有なものは何かありませんか。

 目立ったものはありませんが、人間性や合意性があることがこの地域の特徴です。

28、米以外に作っているものはありますか.

 生産牛が主流になったこともありますが、今は茶やダイコン、小ネギ、イチゴなどを作っています。

29、動物被害はありますか。

 最近急にイノシシが増えて、サトイモや稲を食べられてしまう被害がある。

30、米のネズミ被害はありますか。

 昔はありましたが最近はありません。

31、昔、病気になった時はどうしていましたか。

 この地域に医者のような人が移ってきたのでその人に見てもらっていました。

32、肉や魚は食べていましたか。

 ほとんど食べなかったが、うさぎを狩って食べることはありました。

33、穀類は何を食べていましたか。

 麦や粟、ひえなどです。

34、青年クラブはありましたか。

  ありました。公民会で集まっていました。

35、そこでは何をしていたのですか。

 地域の若い人たちの交流の場になっていました。

36、現在、青年クラブはないのですか。

  そうですね。

37、今、公民会は何に使われていますか。

 米を倉に詰める作業などをしています。

38、昔、夜這いは盛んでしたか。

  あった地域もあればない地域もありました。

39、戦後に犬を捕まえて食べたりしていましたか。

  若い人たちがしていました。

40、恋愛はできなかったのですか。

  同じ地域同士ではあったが、親によって思い通りにならない人たちもいた。

41、共同風呂はありましたか。

  ありました。混浴でした。

42、地域内格差はありましたか。

  やっぱり、地主と小作人の格差はありました。

43、ガスや電気はいつ来ましたか。

  ガスは昭和40年、電気は大正123年に来ました。

44、田んぼはどうやって耕していましたか。

 牛馬を使っていました。

45、牛の操作はどのようにしていましたか。

 右に行くには「とうとう」、左に行くには「こしこし」と言っていました。

46、生計を立てた仕事は何ですか。

 野菜を売ったり、炭焼きをしたり、ふきを作る仕事をしていました。

47、行商人は来ていましたか。

 作業着やござ売り、なべや傘修理の人はよく来ていました。

48、暖はどのように取っていましたか。

  囲炉裏を使っていました。

49、戦争の影響はありましたか。

 子供を失くしてしまう人もいて、戦争は何一ついいことはありませんでした。

 

その後なんとお昼をごちそうになりました。おいしかったです、ありがとうございました。

 

次に松本さんの車でフイールドワークに連れて行っていただきました。

そこで、龍石(タツイシ)と、それに関する伝説についてのお話をお聞きしました。

 

・龍石

 龍石は、長崎県との県境の位置する川にある石であり、遥か昔から現在まで水害などにも全く動じることなく微動だにしない石である そうです。そのため、河川工事の際もこの石だけは動かすことはしなかったとのことです。

 

・龍石の伝説

 昔、源太様という町のリーダー的存在の人がおり、川内野川で馬を繋いで休憩していた。しかし、ふと馬の方を見ると、河童が馬を川に引きずり込もうとしていた。源太様は河童を捕え松の木に縛り付けた。その松のことを「源太松」と呼ぶ。命乞いをした河童を源太様は、河童が「龍石が朽ちようとも改心して悪行を二度と行わない」との誓文をたてると申したことと、何よりご自身の慈悲の深さからこの河童を許すことにした。その後河童を目撃するものは誰もおらず源太様が亡くなっても、龍石はその場を少しも動かず、この伝説をありありとしたものとしているのである。

 

 


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