【伊万里市大川内岩谷】

岩谷現地調査レポート

1TE98032 高村憲明

ITE98010 尾形基貴

 

お話をして下さった方:馬場茂さん(昭和8年生)

川原喜一さん(大正元年生)

副島源一さん(大正12年生)

中島亀蔵さん(明治41年生)

 

<1日の記録>

7月5日(日)晴れ

     AM8:30   九州大学六本松キャンパス 出発

今日は暑い。まず、そう思いました。バスに乗り、段々目的地に近づくにつれて、どんどんすごい山の中になっていく風景を眺めながら、なんだか今日は来てよかったなと思い始めました。

     AM10:50  松浦町中野原到着

バスを降りた。やはり今日は暑そうだ。周りを見渡すが、地図と見比べても、うまく位置がつかめない。困ったなと思っているところで、どうやら院生の方二人と途中まで同じ道順らしく、ついて行けばいいようだ。正直助かったと思いました。ありがとうございました。

     AM11:40  岩谷到着

目的地に向かって歩き始めてすぐ、自動販売機の前に座っていた男性に「岩谷まで一時間かかる」と言われて驚き、実際になかなか遠かった。院生の方は慣れているのだろうかどうだろうか、歩くのが速くてついて行くのが途中結構大変だった。山の中を歩いていたのだが、木々の間を通り過ぎる風が涼しく、峠を越えてしばらく歩くと水田やため池が目に入ってきた。そんな風景が目に入ってくると、多少暑さが和らいだ気がした。

     AM11:50  馬場茂さん宅到着

僕ら二人が家の前に立ち止まったときに、白い軽トラックが入ってきた。中に乗っている二人が、馬場さん夫婦のようで、家に上がらせていただいた。家に上がると、麦茶とオレンジジュースをいただいた。とてもありがたく思いました。しばらくすると、馬場さんやって来てまず「何が聞きたいの」と言う一言で、僕らの現地調査が始まりました。手紙でだいたいのことは分かっておられたようだが、馬場さんは昔からこの土地に住んでいるわけではないらしくあとから古老の方がやって来ると言われ、すごくうれしくなってきた。

     PM0:15   おばさんがご飯を作り始める。

しこ名について馬場さんに聞くが、本人が言う通りあまり知らないようだ。けれど、どうやら少し調べてくれていたらしく、自分の分かっている範囲ではちゃんと話をしてくれた。

     PM0:30   古老登場

いかにもいろいろと教えてくれそうなおじいさんがやって来ました。彼はこの岩谷で二番目の古老らしくそれだけにいろいろなことを話してくれた。時折、どこで質問をすればいいのか分からなくなるくらい一方的に話し出す場合もあり、もっと質問の仕方を考えるべきだったと思った。とにかく古老の一方的なペースに飲み込まれがちだった。

     PM1:10   古老さらに二人登場

馬場さんには本当にお世話になった。土地の古老を三人も呼んでいただけるとは。手紙を出した意味があったというものだ。今度は三人の会話が弾みだしてしまった。馬湯さんもこの三人の前では、もはや僕らと同じ聞き手に回るほかなかった。段々聞き取りにくい方言が増えていった。

     PM1:45  古老の方からの話を聞き終えて、おばさんに昼食をいただく

「まあ、知っているのはこれくらいじゃ」と言われ、一応聞き取り調査は終了した。そしておばさんの「お腹空いているでしょう」の一言で昼食となった。古老の方はビールを飲み始めた。久しぶりに家庭の料理を食べた。また、今日来てよかったと思った。

     PM2:15   昼食をとり終わり岩谷を出発

あじの干物、カボチャの煮付け、みそ汁の味は今でも思い出します。ごちそうさまでした。古老の方の家には、かつて僕らの前に現地調査で訪れた人がいたらしい。その人は、卒業論文のテーマだったそうで、そのときは、その古老の方の家に一週間ぐらい泊めたそうだ。それからお礼を言ってその家をおいとました。そして岩谷を出発した。

     PM3:25   バスに到着

残り四十五分と言うこととこの土地の主要な古老の方に話を聞いたと言うことでかなり早いが現地調査を切り上げた。帰りは行きよりも坂が多く苦しめられたのと、ゆっくりと周りをみながら来たのと言う理由で時間がかかった。今日は、自然をみると言うことでも意義深かったし、古老の話を聞くと言うことも結構おもしろかった。来てよかったと思った。

     PM3:50   バス出発

始め来るときは、スケジュール的に窮屈だと感じたが、終わってみると余裕さえ感じられた。バスに乗ってくる他の人の話を聞いてみると、どこもだいたいうまくいったようだ。メモの仕方が悪かったので、レポートのまとめ上げが大変だと感じた。

     PM6:00   九州大学六本松キャンパス到着

行く前は不安もあったが、今は終わってとりあえずホツとしている。今日は暑くて疲れので、早く休みたいと思います。

 

 

しこ名について

『田・畑』

*ジョウノシタ…「ジョウノヒラ」のふもとの呼び名である。この地名も「ジョウノヒラ」と同じように山の上に出城があったから「ジョウノシタ」となったと思われる。

*フルイワヤ…漢字は、おそらく「古岩谷」だと推測される。この場所も、「ジョウノヒラ」のふもとに位置している。ここには、昔、集落があって人が住んでいたらしいが、大雨か何かで、山が崖崩れを起こして、その集落が飲み込まれてしまったらしい。その後、現在のような場所にみんな住んで「フルイワヤ」の集落はなくなってしまったということだ。

*コイワヤ…漢字は「小岩谷」であり、「フルイワヤ」と同じような地名である。もしかしたら「フルイワヤ」の方ではなくて、「コイワヤ」の方と同じものだったのかもしれない。

*ヌゲ…「ジョウノヒラ」と「ウランヤマ」の間の谷になっている部分であるが、何に由来しているのかは、分からない。

*ミゾンウエ‥・恐らく「溝の上」と言う意味だろうと思うが、この「ミゾ」というのがどれを指しているのかは、よく分からない。

*サシキ…これは、他のしこ名と違って、田・畑だけを指す名前ではなくて、その集落をも指しているらしい。

*マエダ…「マエダ」だと思う。

*ヒラキダ・‥名前から昔からあったのではなくて、切り開いてつくられた田ではないかと思う。

*タンカイ(タムカイ)…「タムカイ」だと思うのだが、何に向かっているのかは、分からない。

*ヤシキダ…[屋敷田」であると思われる。恐らく昔の大きな屋敷の田だったのではないかと思う。

*ハラダ

*イッポンダ

*タンカン

*クリノキタシ

*コウラダ

 

『山』

*ジョウノヒラ(ジョウノヤマ)…この地名は、昔、この山の中に武将が出城を構えていたことがあって、そのことによって「ジョウ」というのは「城」によるものだと言うことだ。

*ウランヤマ…「裏山」だと思うが、岩谷に住む人全てにとって裏山ではないはずなのに、「裏山」と呼ばれているのが不思議である。

*セイラダケ

*クロカミザン

 

『川』

*イワヤガワ

 

村の水利について

この村は、杏川の水源近くにあるために昔から水に困ったことはほとんどない。水田に使うための水も杏川から引き込んでいる。そのときの工夫として、杏川の水源近くに堤 (ため池)をつくり、それを調節することによって川の水量を十分にしていた。

この杏川の水はこの「岩谷」という部落とそれに隣接していて下流の側に位置する「小石原」とで、共同で管理をしている。そして、もし何か災害などで、水路などが壊れたときには、大きな田を持っている家からより多くの人数の人間を修理の時に出さなければならないということになっている。

 

過去の水争いについて

元々、水は、ため池や川の水源に近いということのおかげで水争いはほとんどなかったらしい。もしあったとしても、口げんか程度のものだったらしい。

 

 

1994年の大旱魃について

このときの旱魅についても、確かに川の水やため他の水は減少してしまっていたが、川の水源のほんのそばであることが幸いして、またさらに、この辺りの山は、岩からできているために、山の表面がほとんど水を吸収しないので、少しでも雨が降ると、すぐに川に流れ込んでくるので、水にはそれほど困らなかったらしい。また、どうしても、水が入らないような田には、燃料(ガソリンなど)で動くポンプを使ったりして水を供給していたらしい。

 

村の田について

「岩谷」では、どこでも米はよく取れるらしい。ただし、「フルイワヤ」の田だけが、米があまり取れないそうだ。

このように「岩谷」の田は、米に関しては、全般的によく取れるのだが、その反面、麦の栽培には適してないらしく、米とは違ってほとんど取れないらしい。

「岩谷」では、田が肥えていて、米がよく取れるので、部落としては資産が豊富にあるそうで、公民館などの施設なども部落のお金で造ることができたのだと、話をしてくれた人たちは言っていた。

 

米の保存について

昔の家の造りでは、土間が今とは異なってとても広くなっていて、上の天井の方が、吹き抜けのように高くなっていて、そこのところに梁のようなかんじで、板(もしくは柱)が三本ぐらいかかっていたそうで、そこに米を入れた袋を乗せていたらしい。

そうして米が必要なときには、竹の棒(割と長くて、中の節のところが全部くりぬいてあって米がつめてある袋に突き刺すと、その棒の中を通って米が取れるようになっている。)を使って必要な量だけの米をとるようにしていた。

このような工夫をするのは、米は長期間保存しなくてはならないからであり、その保存をしている期間に、梅雨の時期が含まれているからである。梅雨の時期というのは、もし米をこのような方法で保存していなかったならば、たちまちにカビの餌食になってしまうのである。そうなってしまうとそれから先の間の食料が、なくなってしまうという事態になり、生きていくことも大変困難になるので、当然の知恵なのである。

さらにこの工夫には、もう一つの意味もある。それはネズミから米を守るということである。

 

村の山林について

「岩谷」の人々にとっては、「ジョウノシタ」の山林が、唯一の村の共有の山林であった。ほかにも山林は比較的たくさんあるのだが、「ジョウノシタ」以外の山林は、村の共有のものではなくて、地主などの個人の資産であったのである。この「ジョウノシタ」の山林であるが、これは、ただ村の共有の山林であるというだけでなく、隣の部落である「小石原」とも共有している山林であったそうだ。

 

薪について

薪は昔の人たちの生活にとって必要不可欠なものであったが、当然のようにただではなかったらしい。当たり前のことだが、多くの人たちは、自分の山林を持っているはずもなく、毎日の生活に必要な薪を準備することは、結構大変なことだったらしい。人の山林に勝手に入って取ろうとしても、その山林の持ち主が、取られないように見張りの人を立てていたりしていたらしい。そのようなことであるので、薪が必要な山林を持たない人たちは、山林を持っている人に、薪を譲ってもらう代わりに、その代償として労力を提供していたらしい。

 

米以外の収入について

「薪」は盛んに売られていたらしい。その中でも雑木や松ノ木を炭焼きにして売っていたそうだ。というのもこのあたりは焼き物で有名な伊万里なので、その窯元などに売りに行っていたようだ。その中でも特に、松は高級品であったらしい。

その他には、わらを編んで「ムシロ」というもの(袋?敷物?)を作って売ったりしていたらしい。これはとても盛んだったらしく、他の村までわざわざ、わらを売ってもらいに行ってまでして作って売っていたらしい。

 

村の祭りについて

岩谷のため池よりさらに上にいくと、十畳ぐらいの広さの洞窟があり、そこに「岩谷権現様」というのが祭られているらしい。毎年十二月十五日がお祭りで、その場所に岩谷の人たちが集まって、酒を飲んだり、祝い歌を歌うなどしてお祝いをする行事である。

この岩谷権現様は、「大河内山」の神様のつながりできているそうだ。

 

米以外の農業について

米以外では、「菜種」などを作っていてその油を採って売っていたらしい。

そのほかには、昭和に入ってからの話ではあるが、みかんを栽培するというのも盛んに行われていたらしい。しかし、そのみかんの栽培は最近になって廃れてきたそうだ。

 

「岩谷」の由来

山が岩でできていて、雨が降っても水を貯えることがないため、だそうだ。その結果、水をあまり吸収せずにすぐに表面から流すので、ため池にはすぐ水が溜まるので、昔から 「岩谷」は水には困らなかったそうだ。



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