伊万里市井野尾村に関するレポート

原田智子・道行理枝

 

1,                    しこ名・小路・水路名について

波多津町井野尾

話者:古川重利(大正9)、前田久年(昭和10

 

字:

境松 大坂 木湯山 前田 鳥居原 上の原 観音土井 川田 岩の本

畑津道 二杉 山 口 御岳 大田 鶴岳 荒粉 三岳 通谷 黒田代

上の木場

 

通称(しこ名):

カンバル(上原) コメダ イタノハル カンバル(乾原) ナカヅカ(中塚)

イワンシタ(岩ん下) タシロダ(田代田) モチダ

 

小路:

カタムネ イタリコバ

 

水路:

ヤサブロイデ

 

山の地名:

オオサコ(大坂)

 

田畑:  小字         しこ名

     境松         カンバル(上原)

     畑津道        カンバル(乾原)

     前田         コメダ、イタノハル

     鳥居原        ナカヅカ(中塚)タシロダ(田代田)

     黒田代        イワンシタ

     通谷         モチダ

 

用水:  ヤサブロイデ     行合野川

     大坂溜池=ツツミ

 

その他:岩ノ本         ダリコバ

 

地名の由来

カンバル(乾原):

水の取り入れが困難だったためにたびたび干上がってしまっていたためにこういう名で呼ばれていた。

イワンシタ(岩ん下):

少し南に入ったあたりに大きな岩があったためにその岩の下に広がる田として、こう呼ばれるようになった。(現在はその岩は残っていない。)

 

2,                    村祭

@ むらのおまつり

井野尾の村には年に3回ほどむらまつりが行われている。主に、村の人々が一ヶ所に集まって、神主さんによるお参りや、祈祷を行い、その後宴会が行われるというものであるが、それは次のような内訳になっている。

・春祭り

四月に行われ、村の繁栄を願うもの。

・夏祭り

六月(1998年は628日に行われていた。主に月末の日曜日に行われるもの。)

 

A むらのかみさま

井野尾の村には、公民館の前に、二体の神が祭られている。ひとつは昔から『おだいし様』と呼ばれ、親しまれてきたものであるということだが、詳しいことはよくわからないということだった。もう一つの方は、天照大神を祭っているということだった。こちらの方は『山王』と呼ばれ、山王宮に祭られ、説明も少し記してあった。

*『山王宮』について

『山王神社の御祭神は、大山昨神で、グイというのは山の木や五穀をグイグイと伸ばして育ててくださる神徳を表しており、五穀豊穣や、家庭、日常生活の守り神である。別名、山主之大主神とも申し、山の頂や、高い場所に鎮まっている場合が多い。

総本社は、滋賀県大津市に鎮座する日吉神社であるが、山王の名前はこの大社を延暦寺の側から山王権現と称したことからでており、当時の神仏習合思想の影響を受けている。日吉神社の神は、釈迦の垂迹とされ極めてくらいの高い神とされたところから多くの信仰を受け、山王権現の名をもって驚異的な発展を遂げ、全国の御分社はおよそ三千八百社の多きに至っている。また、京都の松尾大社の御祭神も大山昨神であり、酒造組合の信仰を受け、酒の守り神として知られている。』

また、近隣の村々においても、同様な御祭りがほぼ同時期に毎年行われているようである。

 

3,三岳山の採石場

井野尾の村の南東に広がる三岳山は、昔はたいへん大きな、とてもかたちのすばらしい山であったらしい。それが、圃場整備の始まった少し後ぐらいから、採石場となり、現在では、山の半分近くが削り取られ、昔の面影さえもなくしてしまっている。村に昔から住んでいる人々は、変わりゆく三岳山に悲しみの色を隠せないというような様子だった。しかし、これからもまだまだ採石は行われるこということだそうだ。

 

4,農家の暮らし

井野尾の村で作られている農作物は、現在は米とキュウリである。村には37軒の家があり、そのうち3〜4軒(村の外に仕事に出ている)以外は、みんな農家である。キュウリはハウス栽培で、キュウリと米を作っているいわゆる兼業農家は6軒ほどであり、残りはほとんどが米だけの専業農家であるが、区長さん宅を含め、4軒ほどが肉牛を飼っている。その数は、100頭前後で、一番多いのは、区長さん宅の140頭ほどである。

10〜20年ほど前までは、夏に米作りをし、冬には蜜柑を栽培するというのが主流だったが、冷害のために採算が合わなくなってしまい、だんだんとキュウリや、肉牛の方に移行するようになり、現在ではみかんを栽培している農家は一軒もなくなってしまっている。

 

5,水利

@ 現在の状況

ほとんどの家庭がそれぞれにボーリングをし、地下水をくみ上げて使っている。田んぼの方にもその水を使用しているため、水不足に悩むことはほとんどない。ボーリングをしていない家庭は、村で10軒ほどあるが、それらの家庭は村の真ん中を行合野川が流れているので、その分流である清水川から水を引いている。

A むかしの水利争い

井野尾を含め、波多津のむら村には各村事に大きな溜池があったり、河川が充実していたために特別な水利争いというものは昔から無かった。

B 1994年の大干ばつ

@、Aで述べたように、もともと井野尾の村においては、水不足が深刻になるようなことはあまりなかったので、このときも、井野尾ため池と、堤と呼ばれている村の北西のため池によってそれほどひどい被害は起こらなかった。この堤には、3トンほど水が貯蔵できるようになっているので、あまり影響はなかった。

 

6,圃場整備前後の村の変化

圃場整備は、1516年ほど前から行われ、道路や、川が広くなり農業の機械化や、水不足の解消が急速に進んだ。そのために、交通や暮らしの上では、以前とは比べものにならないほど楽にはなったが、経済面での負担はかなり大きかったようだ。国からの補助もあったが、それでもかなりの額を費やしたそうである。このときから地下水を田に利用できるようにはなったが、収入はほとんど変化しなかった。しかし、便利になったことによって農業が非常に楽になり、時間があまりかからなくなったためにほかの仕事、たとえばハウスのきゅうり栽培などを兼業することが可能となり、結果的には、成功したようであった。現在ではやはり過疎化が問題となっており、4月に新しくなった波多津小学校においても、一学年20人程度というほどになってしまっている。今回訪れた日が、日曜日だったために、また、夏祭りの日と重なったしまったために、十分な調査が出来なかったことがとても残念だった。しかし、調査をしていく上で、村の人々と接することができ、また、井野尾の村の人々があたたかく迎え入れてくれたことは本当にうれしかった。まだまだ自然の多く残っているこの村でわたしたちは今回調べたこと以上に多くのことを学ぶことができたと思う。私たちの調査がどれほど役に立つのかは分からないけれど、またこのような機会があれば、ぜひ参加したいと思った。



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