村の名前 山代町福川内

話者 川田嘉治:昭和三年五月生まれ

調査者 越智琢磨  橋本治幸

 

しこ名一覧

田畑      トドロキ、ニマイダ(二枚田)、サンビャクダ(三百田)

        ノタムコウ(野田向)、ソンダ、マツリダ、カミサンダ

土地の名前   カシキバ、シライワ、ナガタ、シモハエ、

        カマサキ、イセコシ

道       オオミチ、オキモリドウロ、ツジノドウ

川       トドロキガワ

水の取り入れ口 ノダイデ、フクイデ

ため地     カワイダニノツツミ

橋       ナガタバシ

家の名前    ウエンイエ、ナカンイエ、シタンイエ

神社      タテイワジンジャ

 

 行動記録:私たちは、田島寮生である。1998年7月4日朝6時に起床した。晴天だった。それはこの日の一日を占うかのような天気であった。すがすがしい気持ちと、少しの不安を胸に私達は六本松キャンパスへむかった。お弁当を途中のコンビニで買い、そのまま本館前に結くと、既にバスは来ており学生も集まっていた。私達が担当する福川内いきのバス、2号車に乗り込み出発を待った。そこで帰りバスの到着場所と時刻が書かれたプリント配られた。私達は帰りの時刻を確認してから、その日一日の大体の予定を話し合った。

 福川内へは2時間程で到着した。バスの中のクーラーがきいていた分、外気は灼熟の様相を呈しており、−般の九大生にとっては閣虎大王の焼きごてをうけるようなダメージが、あったはずだが、私達のような気骨のある田島寮生にとっては何ともなかったはずだ。

 私達は歩き出した。私達は鳴石をめざしていた。鳴石には川田さんの実家がある。川田さんは幼少のころより福川内に住んでいて、福川内の地形に詳しかった。私達は6月中に区長の吉田さんに手紙を出していた。私達が調査に行く日に吉田さんは法事により不在であることをあらかじめ知らされていたので、吉田さんより紹介された川田さんのお宅を訪ねることにした。道を進み川を越え鳴石へ着いたところで、目の前の鮮魚屋さんにいたおばあさんに川田さん宅を尋ねた。すると、店の奥にいた主人が川田さん宅をそのおばあさんの代わりに教えてくれた。それは50m先の洒屋だった。鮮魚屋に入る前にその洒屋は目に入っていたので、洒屋のヴィジョンが記億の片隅に残っていたようで、洒屋の看板を見たときデジャブを感じた。私達が酒屋に入ると、60代くらいと思われる男牲1人女性2人の珍しいものを見るような視線に迎えられた。私達が学生であることと、来た目的を告げると川田さんの身内であると思われる女性の1人が私達が以前送った手紙のことを思い出した。

川田さんの所在を尋ねると、福川内にある田んぼで作業をしていると言う。私達は早速そちらへ行ってみようと、田んぼの場所を教えてもらうことにした。すると、川田さんの身内と思われる女性が、川田さんに私達を迎えにきてもらおうとして電話をかけた。私達は、わざわざそんなことをしてもらうのは気が引けたので、地図で田んぼの場所を調べていた。

場所についていろいろと話していると、電話がつながり迎えに来てもらえることになってしまった。私たちが恐縮しつつ待っていると、川田さんではなく、30代くらいの男性が軽トラックでやってきた。私達は酒屋の人々にお礼を言って車に乗り込んだ。車の中ではどこの大学からやってきたのか等を聞かれた。いかにも子供が描いたと思われる絵が置いてあって父親の無事な帰宅を願う言葉が書かれていた。

 鳴石はまだ商店街のようなところもあり居住地が主だったが、福川内は田んぼと畑の緑にかこまれていて本当の田舎の農村であった。福川内の川田さんの家はそんな中の一軒で、家の前では肥料をつくっていた。川田さんの家の前で車から下ろしてもらったが、川田さんは家にはいなかった。酒屋で聞いてきた田んぼの方へ行ってみることにした。田んぼの水の中には、多くのおたまじゃくしがいて私達が側を通るだけで一斉に逃げていった。聞いていた1つめの田んぼにはいなかった。2つめの田んぼに向かうと、田んぼのわきの坂道を上ったところに川田さんはいた。川田さんの家に行くことになった。少し話しながら

坂をくだっていった。どうやら、事前に書いた手紙にはお昼ごろに伺うと、書いたので12時ごろに私達が来ると思ったらしい。まだ11時すぎだった。家の中ではあるが、コンクリートの床で、土足で出入りできる場所に入れてもらった。そこには、テーブルとソファーがあって、軽く休めるようになっていた。私達は座って話しをはじめた。

 一通りの自己紹介をすませて福川内の話に入った。川田さんによると福川内と呼ばれるこの部落は昔から特殊な部落だったようで、かなり古い歴史があるらしい0昭和44、45年部落に水がなくなって、簡易水道を作り公害復旧地に指定された。これによって、この部落でも農地の整備が行われるかと思われたが、原形復旧の指定地となったため行われなかった。そのためこの福川内の田んぼの形は昔のままであるらしい。昔ながらの畦道もそのまま残っている。この部落の田んぼを見たときなぜか妙になつかしい気持ちになったのだが、その理由がわかった気がした。

 オオミチ(大道)次に川田さんは私達が持ってきた小字図をみて福川内の範囲を教えてくれた。そして、その境界線の一部をつくっている道の話しをしてくれた。昔、どこかの殿様がその道を通ったとか。川田さんもそのへんはよくわからないらしい。その道のさらにその一部をオオミチというそうだ。たった30mたらずの小道がオオミチと呼ばれているのはたいへん不思議であり、知的興味をそそられずにはいられない。

トドロキ 私達はタンナカにつけられたしこ名を尋ねた。川田さんは家の右前の水田を指さしてトドロキといった。なぜその水田がトドロキと呼ばれているのかについては、川田さんは言及してくれなかったし、私達も尋ねなかった。しこ名を聞き出し、記録することに重点をおいていた私連に、そこまで尋ねるという考えは殆どなかった。今になってみると悔やまれる。

 ニマイダ タンナカのしこ名として次に川田さんがあげてくれたものはニマイダである。漢字で表記するならば二枚田であるそうだ。この水田も川田さんの家から見てとることができる。

 サンビャクダ こちらも川田さんは漢字で三百田と書いて教えてくれた。

 ノダムコウ 小字である野田とひと丘挟んだ所に位置しているのでノダムコウと言うと川田さんはいった。野田向う。この漢字表記以外の漢字をあてて、昔は別の意味をもたせていたと考えることはできるのだろうか。また、ノダムコウは、畑作用地として利用されている。

 シモハエ 漢字表記では霜生えである。海抜高度56mから57皿に位置していると川田さんはいったが、それで何を意味しようとされていたのかは謎だと相棒はいった。であるが、私には少しわかった。海抜高度56m・57mというのはちょうどその当たりが、霜がおりる境目になっているのだと思われます。

 ソンダ 福川内の水源地のすぐ下手に位置している。つまり水利条件の良い水田であると言える。

 マツリダ/カミサンダ 立岩神社で12月に小まつり、大まつりが催される。そのとき必要とされる米をこの水田で作っていたそうだ。現在でも昔と変わらず、まつりのための米を作っている。なお、この水田はソンダのすぐ下にある。この水田もまた水利条件がよかったと言えるのではないだろうか。神様のための水田であるから当然よい水田でなければ困ると川田さんも言っていた。

 カシキバ 農耕用の牛の餌や、堆肥にするための草(かや)を刈り取る場所であったそうだ。ちなみに、現在の福川内には牛はいないが、昔はどの家にもいたらしい。

 シライワ 川田さんの家から見ることができる福川内を谷にしている山の一部分の呼び名。

 ナガタ 小字にもなっている、永田であると思われる。小字の永田にある、3軒並んだ家のあたりをそう呼ぶという。なぜ、その辺りだけがそうなのかは川田さんも分からないと言っていた。

 カマサキ しこ名の数が少ないのでもっとないのか、と尋ねたときに敦えてもらったもの。なぜこのような名前なのかは、わからないとのこと。

 ウエンイエ・ナカンイエ(シタンイエ)3軒並んだ家を順番にそうよんだらしい。

 しかし、現在では3軒目のシタンイエとよばれていた家はないらしい。

 ノダイデ・フクイデ 川からの水の取入口をイデと、よんだらしい。ノダイデほやはり野田にあったのだろうか。これらのイデと呼ばれていたものは、現在ではなくなってしまっている。

カワイダニノツツミ 現在∵福川内にはいくつか(2、3)のため地があるが、そのうちで最も古いものである。徳川中期には既にあったという。かなり古い地図にも、ほかのため池は載ってなくても、カワイダニノツツミはのっているという。

 タテイワジンジャ 私達の持ってきた地図にあった立石神社(タテイシジンジャ)をみて、川田さんが自分たちが呼んでいるのと違うこと気づいた。川田さんは、タテイワジンジャだと言っていた。誤植だろうか。

 

 福川内の水利について 水役さんと呼ばれる部落の水利を管理する人がつねに2人いる。任期は2年で1年で2人の内1人が他の村人と交代する。昔は一度なった人がしばらく行っていたらしい。福川内は三つの谷から成っているのだが、その三つの谷にうまく水を配分しなければ年らなかった。12個のタテイビと呼ばれる栓(のようなもの)を開け閉めして水の行き先や量を調節していたという。タテイビをしめたり開けたりするときにほ、水の中に潜らなければならなかったので、危険もあったらしい。水争いはなかった。四年前の干ばつの影響もない。又、福川内の部落の一部の水田で、他の部落の人が使用しているものがあるのだが、その水田に引いている水はやはり福川内の水であるので他の部落の人はその謝礼としてシロッコという名の税を払っているらしい。4割が地租税6割が人頭税(これをシロッコ割という)である。

 盲道について 山道としてはオオモリドウロとツジノドウがある。オオモリドウロは、数年前に土砂災害のせいで崩れてしまっている。現在地図でその位置が確認できるのはツジノドウである。川田さんが若かった頃は、これらの道を通って滝川内、川内野、山持と交流をしていた。楠久津でみずあげされた水産物などをこれらの道を使って運搬した。これらと牲格を異とするのがオミチである。オオミチは山道ではない。また物資の運搬に使われた道にも含まれていない。

 村のまつりについて 福川内では1年に4回村祭りを行っていた。2月のはつうままつり、7月の夏まつり、9月のおひまち、12月のこまつり、おおまつりである。現在でも行われているのは12月のおおまつりだけである。2月のはつうままつりは、干支でいうところのうまの日に行われる。福川内には現在16軒の古くからの家があるが、年ごとにどこかの1軒がまつりのもてなし役をする家回りの制度により、円滑にまつりは行われていた。このとき、当確の家以外の家からよりこという3、4人のお手伝いをする人をだす。7月の夏まつりではお宮でとうろうあかしをしていた。9月のおひまちは村の青年団を中心とする冬まつりであり、朝日が昇るのを待ちながら宴会をしたそうである。12月の10日には小まつり、13日には大まつりがおこなわれる。おおまつりでは正月のしめなわをつくる。またノベゼッカンという飯を炊く行事がある。ノベゼッカンとは青年が夜通しでうるち米を蒸してお湯につける。米粒は膨張する。それをもう一度蒸して小豆をまぜて食べるのである。米粒は通常の3倍にもなる。また、ノベゼッカンと同時につうわたしと呼ばれる御神酒を飲み交わす行事も行われる。営所、次、部落全ての人、という順番でおさけを飲み次いでゆく。おおまつりの翌年には、当たり家、つまり集りのもてなし役となった家が立岩神社の宮掃除と毎月13日の榊代え、花代えと旗立てを担当する。村の今福岬の部落は上手のグループと下手のグループに分かれている。二つのグループが相互に助け合いながらこれまで村を運営してきた。

米の保存について農家でたべる米(兵埋米)は保有米と呼ばれ、玄米のままでもみびつに保存していた。商品の米はカマスという4斗入りの角袋に入れて保存していた。

 田畑の耕作及び収穫について 全ての水田で、麦と米との裏作をしていた。ちなみに今は米のみを生産している。1反当たり5俵から7俵分の収穫があった。畑では大豆を栽培していたが、2・3年程前からは大豆を扱っていないとのことである。焼畑が行われたことは一度もない。

 入り会い地について 草を刈り入れるための山間の土地をカシキバと呼んでいる。1日に2回は刈り入れに行っていたそうだ。同時に茅を刈って山の手入れをしていた。そこでは薪をとることができるような木が生えていなかった。また草は牛の餌や堆肥として使っていた。現在、村で使われている肥料の殆どが化学肥料である。共済、保障によって購入される化学肥料は金肥と呼ばれる。金肥のおかげで収穫量は増し、堆肥は必要でなくなった。そのため、カシキバの手入れは行われなくなってしまった。

 村の50年前、戦前 福川内では養蚕をしていた。昭和15年頃までのことである。当然のことながら当時は桑畑があった。自家用のお茶も栽培していた。戦後になると炭坑に出稼ぎにでかける人が何人かいた。

 村のこれから 農業は続く、田んぼがある限り、と川田さんは言った。

 一通りの質間が終わった。川田さんは私たちにスイカを切って下さった。少し戸惑い、ためらいはしたものの、結局スイカをいただいた。そのスイカは私たちが川田さんと問答しているときにふらっとやって来た老人が川田さんにプレゼントしたものである。そのとき既に、スイカを食べている己の姿が頭の隅にあった。そのことをあとですこし恥ずかしく感じた。スイカをはさんで川田さんとさまざまな話しをした。川田さんは50歳になるまではエンジニアとして企業に努めていたそうだ。だから農業は20年つづけてきたことになる。川田さんは埼玉県で働いていた。おかげで川田さんは私たちが理解しやすい言葉遣いをしてくださることができたようだ。

 バスが迎えに来る時間が迫ってきた。調査に協力してくださった川田さんにお礼を言って、私たちは山代町でただひとつだけのコンビニ、ファミリーマートヘと向かった。つまり私たちが話しを伺ったのは川田さんただ一人だけである。これはマニュアルに沿っていないと感じたので、帰り道の途中で、畑で鎌をふっている農夫に事情を説明して話しを聞かせていただけないかと尋ねてみた。するとその方は川田さんが−番物知りだからと言って話をすることを遠慮されたのである。そう言えば川田さんは言っていた。福川内の昔からの家は16軒あり、そのいずれもが近からず遠からず親戚であると。当然だが村内に住む者でお互いのことを全く知らない者はいない。時間も残り少なくなってきていたから川田さんの話しだけでレポートをまとめることに決めた。O Kでしょう。



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