歴史の認識レポート

しこ名(伊万里市黒川町福田・干潟)

1SC98269 広木 鑑治

1SC98224  岡史彦

(目的)

失われつつある通称地名(しこな)を古老から聞き取り、それを記録して後世に残す。そのほか記録されずに忘れられつつある昔の村の姿を記録する。

(−日の行動)

1240黒川町に到着

1250田中宅に到着

1350田中さんから聞き取り終了

1400波多宅に到着

1550波多さん、兼武さんと公民館へ

波多さん、兼武さんから聞き取り終了

1600黒川町を出発

 

(調査結果)

〈黒川町福田〉田中 義邦;昭和11年生まれ

・しこ名一覧

小字

道切(満切) カリヤウラ、ニシノソノ、ミチギ、シモカワ

授産社がらみ下組 (シモグミ)

大久保(酉) マツバ、カセクリ、サカヘラ、フクダ

前新田 ウラマル、上組(カミグミ)、中組(ナカグミ)

上新田(カミシンデン) エンノヤマ、ムカエ

池の元 エンノヤマ、ムカエ

鰐口 カミノタンイケ

山口 アマクボ

 

・水利と水利慣行

 田中家は鰐口に田んぼを持っている。その付近の田んぼは、田中家の本家と分家が所有

している。水は川がないので、近くの堤(ため池)を利用している。本家と分家が共同で田んぼを作っているので、昔から水などをめぐる争いはない。1994年の大凶作のときでも、鰐口ではきちんと米が取れた。

 また、授産社がらみと前新田の田んぼは、池の元のため池と山口の山の奥の2つのため池を利用している。しかし、池の元のため池をよく使っている。そのため、1994年の大凶作のときは、池の元のため池では水が足りなかった。だから、授産社がらみの田んぼでは、全然といっていいほど、米が取れなかった。しかし、前新田の田んぼは、山口の山の奥のため池も利用していたので、米はきちんと取れた。大凶作のとき、国から補助金が出た。けれども、そのお金は返さないといけなかった。

・村の昔の姿など

 昔から、黒川町福田の住宅が集まっているところ(授産社がらみ・前新田)は3つに分けている。田島神社よりも海側が下組(シモグミ)、国道付近や国道よりも山側が上組(カミグミ)、その2つの組の間を中組(ナカグミ)としている。葬式や祝儀などのときは、3班に別れて、行ったり、手伝ったりする。

 電気は、昭和の初めにはあった。しかし、ラジオは2軒しかなかった。

 昭和1819年ころまで、このあたりは炭鉱で栄えた。この炭鉱は、はぐろ炭鉱と呼ばれていた。しかし、取れる石炭は、米島の海岸(現在のイマリンビーチ)映画館や病院、居酒屋などもあった。この長屋集落もなくなってしまった。

あまりよいものではなかったらしい。カリヤウラや、には、たくさんの長屋があった。また、そこには、けれども、昭和19年には閉山してしまったので、

現在、煤屋付近に中学校ができているが、その名前をはぐろ中学校とする声もある。

 国道より山側にゴルフ場ができるという話もあったが、中止になった。その山で、昔はみかんを作っていたが、値段が安いので作らなくなった。

 現在、村の人のほとんどの家庭が、兼業農家です。昔は、農業中心で、お米はガンガン(ドラム缶など)に蓄えていた。山田(山の中の田んぼ)もあったが、今はもうない。

 昭和1925年頃、授産社がらみは塩田(塩を作るところ)だった。その後、海岸に堤防を作って、そこを水田にした。その堤防を作るときになくなられた人のお墓は、堤防のすぐ横にある。また、戦死した人のお基はまとめて、公民館の裏にある。

〈黒川町干潟〉 波多 健次;昭和23年生まれ

       兼武 武雄;大正14年生まれ

・しこ名一覧  小字

網ノ頭 桃の木(モモノキ)、下(シモ)、中口(ナカグチ)

    オツケゴ、タッタリワ

干潟  馬洗い川(ウマアライガワ)、鳥の山(トリノヤマ)

    上松(ウエマツ)、川の谷(カワノタニ)、一里塚(イ

    チリヅカ)、福田頭(フクダガシラ)

岩原  平(タイラ)、甘木の窪(カノキノクボ)、ぺんぺん

赤栄  臼の窪(ウスノクボ)

竜ケ峰 ハチノクボ

長峰  ミツキワ

・水利と水利慣行

 干潟地区の田んぼは、戦前からほとんど変わらない。昔からある田んぼを、子孫が守っている。しかし、減田のために、荒れてしまった田んぼはある。

水は、田んぼ群の、一番山側にあるため池や、そこから流れる干潟川の水を利用している。ため池には、水番がいて水の出し入れを管理している。

 1994年の大凶作のときは、干潟の田んぼはほとんど影響を受けていない。なぜなら、干ばつのときは、水が枯れるので、湧き水(ポンプアップ)を利用している。

・村の姿など

 今では、干潟という字になっているが、昔は、日方という書き方もあったらしい。福田と干潟の境を、福田頭という。電気は、大正10年ごろにはあった。干潟は落人の村で、昔は、世間から隔離されていた。農業は麦、菜種、米の栽培が中心で、自給自足の生活だった。また、農業以外では、木炭や、薪を作って生計をたてていた。

 昭和40年代には、一家に一頭農耕用の牛がいた。しかし、明治時代は農耕に使われるのは、馬だった。なぜなら、明治時代は高貴な人が、牛に乗っていて、馬よりも牛の方が、高価なものとして扱われた。馬は疲れると働かなくなり、牛よりも扱いづらかった。現在は、乳牛の方がさかんである。

 昔は、農業がさかんだった干潟地区も、現在では農業の収入ではやっていけず、兼業農家がおもになっている。農家のほとんどは、補助金の対象となるので、栗や梅を栽培している。補助金は、国と県からの両方から出るようになっている。

 1215日は、サルタヒコの神をまつる祭りがある。この日は、朝から部落で集まって、竹やワラで小屋をつくり、上の神と下の神をたたえてお払いする。この行事は、約400年前から続いている。

 今は、国道と干潟地区をむすぶ道ができているが、昔は、獣道を通るしか干潟地区に行く手段はなかった。しかし、兼武さんが若いころ、村の人たちでトロッコをつかって国道から道をつないだ。

 



戻る