歩き、み、ふれる歴史学

伊万里市大川町東田代

樋爪葉子(1LA99200)

藤野寛乃(1LA99211)


《話を聞いた方》

仲尾昭生(昭和2年生まれ)

《小字》

 コウビラ(香平)

 タカミ(高見)

 ダンノコウチ(段ノ川内)

 ツツエ(筒江)

 オノウエ(尾上)

 ヤジュウロウ(弥十郎)

 ナカノコバ(中ノ木場)

 コブキ(小吹)

 マエサカ(前坂)

 フナノモト(船ノ元)

 キタタシロ(北田代)

 タシロ(田代)

 カミノキレ

 フキイダ(吹伊田)

 ヒザカキワラ

 カワバル

 カメヤ

《井せき》

 コウチセイリ

 ナカノイデ

 シタノカワイデ

 タカミ

 コビラ

クルマイデ

 イチノイデ

 

 

 

《谷の呼び名》

  トヤゴウチ

  ショウゴンタニ

  ホトケンタン

  ホンタニ

 

《山の呼び名》

  ムカイコバ(=ムカイヤマ)

 オクノコバ

 

《溜池の呼び名》

  コビラノウチ

  大溜

  中溜

 ナカノコバ

 

《滝の呼び名〉

  オオタキ

  コタキ

 

《岩の呼び名》

  ピキノスケ

 

 

 

 

 


《村の全体像〉

上側・・・田代

中間・・・東田代

下側・・・筒江

川・・・東田代川 ⇒村の中心部を流れ、溜池からの水を村全体に供給している。

橋・・・@山下橋 ⇒名前の由来は、この橋が山の下にあったことにある。

   A前坂橋 ⇒名前の由来は、小字からきたものであると考える。

御堂・・・天神さんと村民から呼ばれているが、現在、魂は別の神社に移されている。

山・・・大部分が、県公林になっている。

   以前(地主:県=64)⇒現在(地主:県=55

溜池・・・今は使われなくなり、枯れ池になっているところもある。

 

《村の山と村民とのかかわり》

 村には、“○○木場”と呼ばれる山が多い。この村では、焼畑のことを、“木場’’と呼び、昔から焼畑が盛んだったためであろう。そのひとつである向山(=向木場)について述べてみる。以前この山は、村民が、自由に使える共有地的存在であり、リアカーや、牛をひいて、草を刈っていたそうだ。その草は、家畜の餌や、かやぶき屋根として使われていた。そのため、草きり場とも呼ぶ。夏には、村全体が、共同作業で革をかっていた。このことを、“こう’’(=結)と呼ぶ。その草を“とりこずみ”にしていた。その草(萱)を一戸が50ぱずつ持ち寄り、30年に1回、屋根のふき替えをしていた。屋根の作業は、田代と筒江で別々のグループをつくって行っていたそうだ。(このような共同作業も“こ

と呼ぶらしい)次に、また草が生えてくる時期に、山を焼く焼畑が、盛んであったが、作物はつくっていないという。

この共有地においてのルールだが、偏りがないように、縦に2間幅で、頂上までの割り振りがしてあったらしい。この区分けは、昔から変わらないが、場所取りは、何年ごとかに、抽選があるという。境目は、皆だいたい周知の上であったため、大きな石や木を目印にしていたらしい。その岩のひとつ

に“ピキノスケ’’と呼ばれていたものもある。

 昔から、この村の人の出入りは少なかったが、新しく入ってきた者に対しては、このような共有地を利用するにあたって、村民と同様の平等権利は、なかったそうだ。

 

《村の祭り》

@川祭り…土用入りの前(719日)に行う。村全体が、2つに分かれて、個人の池の水を抜いて、掃除をし、餅をつくり、それを供える。またお酒を飲み、家族中でこの祭りを祝う。

Aさなぼり…田植え上がりに、老いも若きも公民館に集合し、この祭りを祝う。

B1123日の祭り・・・神社に、つくった甘酒を奉納した。甘酒は、毎年2人ずつ交代でつくる。山の神を祝う祭りで、村民は、ほぼ全員参加する。

C知恩会…3月頃に行われる。

20人ほどの仲間で、お坊さんをよんで説経を聞き、その年になくなった人がいれば、追弔会を行った。

 

《昔の若者》

 村のほとんどの男性が、青年クラブに入会し、公民館に毎晩のように泊まりにいった。映画を見に行ったり、村の女性を呼び、花見に行ったりしたそうだ。また、彼らのこのような活動は、村で火事や、洪水が発生した場合の備えも兼ねていたという。村の内部だけでなく、他の部落との交流も盛んだったそうだ。彼らは、青年クラブだけでなく、さらに大きい組織である町民クラブにも入会していた。

その他の活動として、浪花節や、狂言を彼ら自身が行ったり、時には芸人を呼んだりしていた。その謝礼としてもらったお金が、青年クラブの収入の一部になっていたそうだ。

青年クラブには若い男性が多かったこともあり、スイカを盗ったりたり、干し柿を盗ったりしていたらしいが、「青年のすることだから・‥」と、村の人たちは目をつぶっていたそうだ。「もちろん、村のお菓子はとったりしていないよ!」などと、自分の若かりし頃をふりかえり、楽しそうに私たちに語ってくださった仲尾さんが、とても印象的だった。時には村の娘さんたちを、冷や

かしにいくこともあったそうだ。しかし、そういうことがきっかけとなり、結婚した人は少ないらしい。

また、他の村まで行って、このようなことをすることはなかったそうだ。

村の娘さんたちは仕事として、草鞋を編むこともあったが、働いてばかりであったというわけではないそうだ。

 

《村の農業・米について》

@    飯米は、2人がかりで、カンやカメに入れて保存していた。(1つ当たり60kg

 

A    種もみは、わらで編んだ“かます”に入れて保存していた。その際、ねずみに食べられないように天井から吊り下げていた。(ブランコのような状態で)しかし、ねずみによる被害は、それほど多くはなかったようだ。

 

B    良質な米を作るために、34年に1回の割合で、農協に種もみ自体を取り換えてもらうこともあるようだ。品種は、各自の家で管理し、品種改良をおこなっているが、やはり、種もみ自体の交換を行わなければ、もとの野生種にもどってしまうらしい。昔は、隣村の人々との物々交換の目的物として、種もみを利用していたという。

 

C    裏作として麦も作っていた。この作業は、“結’’(共同作業)で行っていた。

 

D    田の整備においても、昔は、現在のような便利な機械がなかったため、大勢の人々を呼び集め、‘‘結’’で、行っていた。

 

E    佐賀平野に稲植えを手伝いに行っていた。これは村民にとっては、貴重な収入源であったそうだ。

 そのほかにも、炭を焼いたり、みかんや、ぶどう、なし、野菜などを作ったりしていた。

 伸尾さん宅では、そういった野菜、果物類などを、つい最近まで、奥さんが市内まで売りにいっていたという。しかも、よく売れていたそうだ。

 

F    食生活に必要なものは、今では車もあるため、スーパーなどへ買いに行くそうだ。昔は、魚介類などを売りに唐津から、行商が来ていたという。

 

《村のこれから》

 この地域は、5年前の旱魃により、水不足に困っているらしく、村では、それまで反対していたダム建設の要請が、出てきはじめたという。すでにダム建設の調査が、始まっており来年から、本格的に造りはじめるそうだ。ダムの高さは20メートルであり、40万トンの水を溜めることができる大規模なダムであるという。そのため筒江の半分がダムに沈んでしまうことになる。

(ダム建設予定地の様子は、最後のページで紹介する)

減反政策も進み、百姓も農業に対する意欲が失われ始め、特に若い人は、そのほとんどが、勤めにいく傾向にあるらしい。この村において、農業は、もはや本来の意味を失いつつあるそうだ。農協に畑をとられないように、畑を維持するため、働くようなものだという。「たとえ地主が、無料で土地を貸すから、作物をつくってほしいと頼んだところで、つくり手がいないのではないか?」と、農業に携わる仲尾さん自身が言うほどである。仲尾さんもまた、農業の傍らに造園を営んでいくそうだ。

 

《村を訪問した感想》

 今回現地調査のため、この村を訪問するにあたり、仲尾さん御夫妻をはじめ、村の方々にも、大変お世話になった。この調査を無事終えることができたのも、彼らの協力があったからこそだといっても、過言ではないだろう。この場をかりて、心から感謝の気持ちを伝えたい。

 さてここで、今回の現地調査の中で、私たちが注目した点について述べてみたいと思う。村は、山々に囲まれており、一面に広がる畑や、昔の段々畑を見渡しながら、私たちは、仲尾さん宅へとむかったのである。普段目にすることの少ない、のどかな風景を目の前にし、私たちは、思わずカメラを手にとった。その一部を最後のページに掲載することにした。この村が作り出す、独特の雰

囲気が、伝わることを望みたい。

前ページの情報は、主にこの調査で、訪問させていただいた、仲尾さん御夫妻に、提供していただいたものである。この村において、農業が直面している問題、教科書などでは学べない、農業に携わる方の生の意見や、その実態を知ることができ、私たちにとっては、貴重な体験だった。また、村の昔の話、特に仲尾さんたちが、私たちと同じ年頃の時の話も大変印象的だった。青年クラブについては、前ページで詳しく述べているが、村全体で、何かを楽しみ、そして困ったときは協力していたという様子が、目に浮かんでくるようだった。その話を、懐かしそうに語る仲尾さんの様子から、その当時の楽しげな様子がうかがえた。今の私たちには、余暇をどのように過ごすかという選択肢が、たくさんある。それは、明らかに当時の仲尾さんたちの過ごし方とは違うだろう。しかし、村の中での交流や、他の村との付き合いなど、自分たちで作り上げた手作りの楽しみを満喫していた仲尾さんたちを、とてもうらやましく思った。しかし今現在、村の若者は、村から出て仕事をする人も多く、やはりこの村でも、過疎化は深刻な問題であるようだ。また、水不足を防ぐためのダム建設も予定されているということがわかった。村の一部が、水底に沈んでしまうわけであるから、村にとっては、明らかに大問題であっただろう。しかし水は、村人の生活の大事な部分を占める生活源であるから、妥協せざるをえなかったそうだ。このようにこの村が抱えている問題は、1つではない。一見のどかにみえるこの村も、大変な問題に悩まされているのだ。

 伸尾さんのお話は、私たちにとっては、初めて知るようなことばかりであり、大変興味深かった。私たちは、いつしか、今回自分たちが調査をおこなったこの村を、できるだけ詳しく表現したい、と思うようになっていた。それほど今回の調査は、収穫が多かったわけである。この村をいろんな角度から調査することができ、とてもよい結果を残すことができたと思っている。



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