西有田町下内野

1EC99154 森野晋哉

1LA99271 横田真吾

 

・下内野・・・以前は深城と呼んでいた。深城は現在でも溜池の名前や小字に残っているが、深城とは松浦党の唐船城の出城の名前であり、その跡地にはわずかながら石垣の残骸と思われるものがあるらしい。

 

・しこ名一覧

1、 小字近村付近

サンシローヤシキ:昔サンシローという人が住んでいたことから付いた。

キタカド:名の由来は不明だが、昔はここにきれいな湧水があった。

モイ:森(もり)がなまったもの。昔は森があった。

2、 小字中通付近

ゼンベビラ:昔、ゼンベイが住んでいた。

カミヤ:昔、近くに紙をすく人がいた。

ソーエンヤシキ(屋敷):昔ソーエンという人が住んでいた。

シメシガワ():「湿り」から生じたか?村の水利に利用。

3、 小字深城付近

ウエンタン:上の谷のこと。深城溜池より西()にあるから。

ヤマンシタ:山の下のこと。名前の通り、山の下にあるから。

コンピラサン:山の下の元となった山の名前。

ハッテングウサン:(八天宮山):由来は八天宮という神様が住んでいたから。

ヨンジーヤシキ:昔、住んでいた人のあだ名がヨンジーだった。

4、 小字神の前付近

トリイモト(鳥居もと):小字に見られるように、ここには内野神社があり、それが由来となった。

ミヅゴンジ(密厳寺):昔、密厳寺という寺があった。今はない。

5、 小字大野原付近

アラコー:由来不明の地名。感じだと荒口か?

オーシャヤマ():後述するオサヨ観音のもととなったオサヨ姫が休息をとった山。

6、 小字松田久保付近

ウークエ(大壊):漢字に見られるように地盤がもろく、かなり頻繁に地すべりが起こったらしい。

トンマッタン:由来不明だが、昔は稲荷さんがあったらしい。

オニホイダシ(鬼掘り出し):鬼が掘っていたかのように、土地がくぼんでいた。

マオトコダニ():由来不明

ナナマガリ(七曲):昔あった山道が何回も曲がりくねっていたから。

ヨゲイシ:山へ芝刈りに行く際に、休憩のため大きい石が置いてあった(多分現存)

イシモリ(石盛):大きな石がごろごろ転がっていた。

7、 地域外

ゾウシュクチャーバ(蔵宿):蔵宿田原のこと。

トマリ:行き止まりのことか?

リュウオウサン(龍王山):龍王川(現在の蔵宿川)の源流。

ニシンタケ(西ん岳):下内野から見て、西側に山があったから。火山爆発による溶岩が長崎側に流れ、それにより、長崎側の山はなだらかになったが、佐賀側はきつい山道のままである。

オサエカンノン(観音):松浦党の家臣が急務のため唐船城からいいもり城へと移動していた際に同行していたオサヨ姫(小佐用姫?)が途中で産気づき、その家臣は姫をそこに放置して役目を果たし、帰りに迎えに行ったが、子供は無事生まれたものの姫はなくなってしまったことからそこに観音様を祭り安産の神様とした。現在でも安産の神様として人々から厚く信仰されている。

 

・水利

内野、蔵宿から水路を引くことが多く、内野川は上内野と共有。川の水が不足している場合には大野原、神前といった溜池を利用した。この水流でまかなった下内野の田畑面積は25haといわれる。

 

・村の耕地

良田、悪田といった区別はあまりなかったが、強いて言えば、ウエンタンはあまりいい田ではなく、この区内では一番農耕がしにくい田んぼだった。

 

・電気、ガス、電話

電気は大正8年に山を売ってできた。それ以前はカンテラ、ガラスランプが主。菜種油を燃料とし、そののちは石油へと変わった。

電話が集落全体に行き渡ったのは、昭和4344年。最初に来たのは昭和32年の公衆電話。各部落に1台ずつ設置された。ガスはこれよりもだいぶ遅かった。

 

・燃料

風呂はもとは共同風呂であり、石炭を燃料とした。個人では山の芝や麦わらを使い、近所の草も使った。また山に残っていた枝を取りに行き、燃料はお金を使わないようにした。だいたい冬に薪をとりにいき、夏に草刈をした。

 

・肥料

堆肥を使ったり、化学肥料を使ったりしたが、一番有効な肥料は人糞尿だった。

 

・牛や馬

少なくとも1匹はかっており、主に農作業に使用していた。馬はばくりゅうが売りに来ており、おす、めすの関係なく用いられていた。しかし牛の場合おすは凶暴なものが多く、怖かったため多くの農家ではめすを飼っていた。戦争が始まるとこのような農作業用の馬は軍馬として徴用されるようになり、お話された岩永さんは自分の馬を小城まで率いていったという思い出を語ってくれた。

 

・米の売却先・保存

米は農協ができると、ほとんどそこに売るようになったが、それ以前は商人がこの地にやってきて彼らに売っていた。米の保存は俵につめたりしたほか、玄米にすることなく籾のままで保存したりもした。

 

・塩魚

どちらかというと、山がちな下内野は塩や海の魚などは商人から買い受けねばならなかった。魚を売る行商人は伊万里から汽車に乗って売りにやってきた。

 

・祭り

昔は秋祭りと呼ばれる祭りがあった。

くんちの前の晩には蔵宿に市がたち、村の人たちの楽しみの1つとなった。村の人たちはそこでカナヤマという大きな魚を買い、それを家に持ち帰ってぶらさげて少しずつ食べていたという。昔は現在ほど食糧事情が良くなかったため、大変貴重な食べ物だったそうだ。

725日 天神祭

1218日 観音講(女性のみ)

内野神社祭り

田祈祷 田植えが終わったあとに豊作を願う儀式のこと。溜池にごへいをたて、溜池の水利係りが当番でそのごへいを監視し、お祈りをしていた。

宮相撲 内野神社では宮相撲が行われていた。他の地区から参加する人も多くかなりのにぎわいを見せていたようだ。

 

・調査に協力してくれた方々

木寺博好さん 昭和257月生

木寺辰雄さん 大正8年生

岩永嘉治さん 昭和34月生

庄山鹿夫さん 大正91月生

(松浦党の家老の子孫だそうです)



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