西有田町下村谷村
1LA98240 三好智久
調査協力者:椎谷丑彦
しこ名について
下村谷地区では、残念ながら、有田川以東の山間部のしこ名のほとんどを聞くことはできなかった。しかし、調査した上で分かったしこ名を銘記しておく。
松浦線以西 北から:シッサチゴウチ(尻先河内)、キタノハル(北ノ原)、ヨケジ(除地)、シタンヤマ、オフタンザカ、スズガヤ(鈴茅)
松浦線以東、有田川以西一帯 イセイシ(伊勢石)
有田川以東 一部 クニンヒラ(壊平)、他は知らず
このあたりの小字は、しこ名としても使われていたと思われる。
しこ名の語源について分かっているものがいくつかあるため、それについて説明しておきたい。
ヨケジ(除地):昔、免税地位の人たちが住んでいて、年貢の対象にならない地域だったから。
クニンヒラ(壊平):よく土砂崩れが起きるところだから。
スズガヤ(鈴茅)について
徳川家綱の時代に、鈴茅のあたりに点々と存在していた家々を全部北のほうに移し、耕地整備を行って、その土地を田畑に変えたそうである。今も田畑が広がっている。
一日の行動と調査報告
まず、区長の石橋厳次さんのお宅を伺い、このあたりで歴史に詳しい人を教えてもらう。その中で、この集落の氏神をまつる山田神社の神主をやっていらっしゃった、椎谷丑彦さんを紹介してもらう。そのお宅を伺い、調査を行った。
水利について
水利については、干拓事業についてしか聞いていないのだが、300年前の寛文年間ころまでは、柳渡瀬橋から山田神社たたりまでの有田川は、小字伊勢石を貫くように流れていたそうだ。それを工事して、東の方に流れを変えて、干拓した地域を田畑にした。その干拓した地域の広さは十五町歩だったという。その干拓の記念碑が、いつごろまでかは分からないが、旧伊万里街道沿いにあったそうであるが、今は、二ノ瀬地区に移っているという。
村の耕地について
このあたりは山間部であるため、湿田はほとんどないそうである。また、収穫率の良い順から、一等田、二等田と区別され、中には地層田という呼ばれ方をした田もあったという(内容は詳しく聞いていない)。農薬に関しては、使われ始めたのは昭和初め頃で、大正期までは、鯨油を使っていた。当時は、農薬とは言え、うんかの退治に使っていたに過ぎず、もんがれ病などの稲の病気にはなすすべがなかった。どうしようもないときには、神頼みによって、なんとか収めようとしたようである。
鯨油を使ってどうやってうんかを退治するか、について、椎谷さんは詳しく語ってくれた。
まず、水のはった田に鯨油を流し込み、全体に薄く広がったところで、稲の中にいるうんかなどの害虫を、稲をささで落とすことによって叩きだし、鯨油の上に落とすものである。鯨油の上に落ちた害虫(主にうんか)は死んでいくらしい。その理由は椎谷さんはわからないとのことだった。
化学肥料については、肥料、金肥などを代表としているが、椎谷さんはそれが使われる前にどうして土地を肥えさせていたかを語ってくれた。
化学肥料がない時代は、草原(クサッパラ)で刈ってきた青草を田に敷き詰め、それを肥やしにしていたそうだ。それでも、田の肥やしとしては十分土に栄養を与えていたそうだ。他に、それ以外の肥やしは使っていなかったそうである。しかし、草原(クサッパラ)は、後で詳しく述べるが、不便なところにあったため、肥料、金肥が登場した頃から、青草を刈りに行かなくなり、この方法は使われなくなったという。
村の発達について
この村に初めて電線が引かれたのは大正10年頃である。電線が引かれるまでは、ランプやあんどんを使い、夜間道を歩くときは、ちょうちんを使っていたそうである。
電線を引くことは、その当時、村人にとっては大きな負担だったようだ。電気公社に、電線を下山谷まで引くための莫大な資金を提供して、やっと電線が引かれたのである。それと同様に、新しく村に移ってきた人に対しては、米1俵か、それに見合う金額を村に収めなければならなかった。この原則は、ずさんなことではなく、かなりきちんと行われていたようである。
村の生活に必要な土地
先に述べた、草原(クサッパラ)のことをまず挙げる。下山谷村の人々は、上山谷村の西の竹(小字西ノ原ではないか)に、村の草原を持っていた。歴史的なことも、椎谷さんから教えていただいた。上山谷村の西の竹にある草原は、江戸時代の藩の所有地とされ、農民に対する援助から、農民にはただで草をかることが許されていた。明治時代になると、無主(藩が廃藩置県によってなくなったため)の共有地は、国有原野として国の所有物となったが、慣習法としての農民の入会権(刈り入れ権)が国に認められ、そののちも無償で青草の刈り取りができるようになった。この草原は、入会原野として扱われ、この草木を使って肥やした田から収穫された農作物の売上の3割を国が、残り7割が村が分け合うことにしていたという。
草原は、下山谷村の人々にとって遠い場所にあり、刈り取った草木も重荷なので、馬に刈り取った草木を担がせて運んでいた。
米の保存
農業協同組合(当時「産業組合」)は大正12年には、既に存在していて、そちらに流通させていたようだ。その他、他に詳しいことは聞けなかった。
村の動物
この村では、1軒につき1頭の牛、または馬を飼っていた。雄か雌かは関係なかったようである。また、牛や馬の販売仲介人である博労(馬喰、ばくろう)は、「ばくろうさん」と呼ばれていた。この村にも、何人かはいたそうだ。博労は商売のため、ちょっと病気になった牛、馬がいれば、新しい牛や馬をよく勧めたらしく、かなり商売上手であったらしい。
村の道
今現在の伊万里街道は、松浦線のすぐ西側を通っているが、昔の伊万里街道は、今の松浦線の東にあったそうだ。塩、魚、米などの運搬はこの道を使って行われていたと思われる。
まつり
まつりについては、かなり詳しく教えていただいた。そもそも、祭は各地の宮、寺などで行われていたようだ。この村での主な祭はここの氏神である山田神社で春、秋に行われる祈年祭(年乞の祭)と新嘗祭である。これらは、その年の豊作祈願のための祭りという意味合いがあったようだ。その他にも、一族内で執り行う本家の祭りや、神社と信仰の深い人々と行う例祭というものも執り行われていた。また、農繁期に入る一週間前に執り行う祭りとして早苗饗(サナエブリ)というものがあったらしい。農村では、農繁期に入る前に、養蚕、麦植え、田植え、草刈を行う。これらの作業でだいたい7キロから8キロは痩せてしまうらしい。いつもは粗末な食事しかとっていないため、この早苗饗のときには、みんなで集まって、魚などのご馳走をたらふく食べるのだそうだ。そして農繁期に備えて十分体力を温存していたそうだ。
昔の若者
テレビも映画もなかった時代の農村での遊びといえば、宴会と男女の戯れであった。明治時代以前は、青年を迎えた男女は、社会人の訓練として、青年宿(セイネンヤド)というところへ行って、彼らの先輩から、男女の交わり方や、その他にも村の厳しい規律や、助け合いの精神を学んだそうだ。先に述べた早苗饗も数少ない遊びの一つだったようだ。そこで男女の交わり方の他に、村の厳しい規律や、助け合いの精神を学んだ若者たちは、村の一大事のとき(火事や土砂崩れなど)に率先して若者たちが団結し、被害を最小限に食い止めようとしていたそうだ。
しかし、大正時代の初め頃になると、風紀粛正のために、集落ごとに青年会(クラブ)や処女会(クラブ)ができるようになる。青年会は、清廉潔白な人間にならしめるという目的で、絶えず勉強会を行った。青年会も処女会も、ともに青年宿の男女の交友を厳しく避難し、そのような行為をしないように厳しく若者たちに指導をおこなった。その結果、青年宿は、結局指導の行き過ぎによってなくなってしまい、楽しみとしては、祭りや早苗饗ぐらいになってしまったそうだ。
村のこれから
戦前は、手すきの人は、忙しい人に対して、手伝いを率先して申し込んでいた。そして、以前手伝ってもらった人が困っている時には助けてあげる、という強力関係が、村全体で成り立っていたそうだ。特に、この協力のことを結(ユイ)という。この結は、村人のほとんどが、農作業に従事している村落共同体になくてはならないものであったようだ。
しかし、戦後、農業機械の発展によって、農作業が人の手を借りなくてもできるようになり、結の関係は崩れてきた。代わりに、村人は職場に対して共同体の意識を持つようになり、職場社会を形成していったんだ、と椎谷さんは言う。
現代の職場社会の疲れから、若者は農村に回帰している。農業を志すには、地域住民との協力関係がないと農業はできないということを踏まえて、もう一度、農業を通した共同体意識を彼らに持って欲しいと思う。