歩いて歴史を考える S2・25 1AG98109高木利憲 1AG98110高木幸洋 調査地 佐賀県西有田町下本村 黒川 弘之 大正8年10月生まれ 空閑 松雄 大正9年8月生まれ 浦川 正治 大正13年1月生まれ 福島 日人士 昭和19年10月生まれ 岩永 正俊 昭和21年8月生まれ 空閑 久生 昭和22年4月生まれ 岩永 勝義 昭和27年生まれ (敬称略) <しこ名> 小字名 しこ名 深川 ウシロンタ(後ノ田) 中十里 ナカズル(中鶴) コイデ(小井手) サンダンマ(三段間) マツノヒラ(松ノ平) 北下原 ドンハ、ドウノハル(堂ノ原) マイノウチ(舞ノ内) マエダ(前田) ゴタンマ(五反間) ウエノハル(上ノ原) タカノス 西黒川 イガワブチ(井川淵) 立中(タッチュウ) カンノイデ(勧音井手) 井手平(イデンヒラ)カワムコウ(川向) ウワイデ(上井手) ナカズル(中鶴) 天神原 カワムコウ(川向) ジュウロウビラキ(十郎開) アサガラ 山川 保立(ホタチ) 櫨川内(ハゼガワチ)ウシロンタ(後ノ田) ツル地名は、九州地方に多くみられ、鶴、津留、釣、都留、流川などの字をあて、主に川沿いに見出される。朝鮮半島から文化の伝来も早かったので、九州に目立つ(ツル)地名は、朝鮮系の地名と説く者もいる。 <村の水の利用> 濁渕溜池、島守上溜池は下本村だけで使用していたが、島守下溜池は、北ノ川内と共有して使用していた。新堤は、話し合いの結果、仏ノ原の管轄となった。 これらの池や堤から舞原井出、観音井出、小井出などの井かり(井せき)をとうして田んぼに水をはっていた。 ・1994年の大早魅について 生活用水は有田の古木場ダムからポンプ(補助金で購入)で引水 農業用水は天にまかせた(被害はそこまで大きくない) 昭和23年9月 大水害 川辺はまだ護岸工事が施されていななかったので、山崩れ、川の周辺が土砂で埋まるなど、非常に大きな被害をうけた。死者は28人にものぼった。 昭和42年7月9日 水害+干害 集中的な豪雨の直後、日照りが長続きし甚大な被害をあたえた。日照り続きの時は川や溜池から水が無くなったので、生活用水は、川底を堀り、一晩水が染み出てくるのを待ち、朝、溜まった水を汲み取って利用した。 昭和43年2月 大雪害 大雪が降り、電柱や木(果樹)が倒れた。 <田んぼについて> 下本村は、平地が広がっているので、田んぼによっての水利に差は無い。しかし、谷間にある田んぼは、日当たりに差がでてくる。よって、日当たりの悪い土地にある湿田(ふけた)よりも、一般的に乾田のほうが収穫量は多い。 化学肥料は、30年程前から使用。使用前は堆肥(大部分)や、油粕を使用していた。また、化学肥料を使い始めてからは田んぼによっての収穫量の差がほとんど無くなった。 除草剤などの農薬は、昔は現在と比べて劇薬だったので、その当時から川に住む生物(魚、蛍、とんぼ)が激減した。川でも泳げなくなった。 <村の家畜> 牛は一家庭に1,2頭が普通で雌牛のほうが多かった。雄牛(コツテイ)のほうがよく働きはするが、気が荒いので扱いにくかった。また、雌牛を持っている家庭に雄牛を持ってきて種付けを行う種付け屋とゆう職業もあった。 馬は一般の農家でも飼っている人もいたが、運送屋.(兼業農家)が多く飼っていた。 牛や馬の仲貿人である馬喰(ぱくろう、ばくりゅう)は口がうまく悪賢いと言われている。家畜の値段の交渉の時には、お互いの手にタオルを被せて指を握り、その本数などで価格を決めていた。 <米の保存> 家庭で保存する場合は、高さ1.5メートル程の金属製の缶に入れていた。農協が設立される以前も産業組合という組織があったのでそこにほとんどの米を出荷していた。なかには闇米として仲買人と直接売買する人もいた。種籾には、その田のなかでももっともできの良い米を使用し、藁で編んだ、かますという袋にいれて保存した。ネズミ対策としては、猫を飼ったり、罠を仕掛けたり、 猶いらずという毒を仕掛けたりしていた。家庭で食べる米は飯米(はんみや〜)と呼ばれ、50年前は麦と米を2:1の割合(ときには砕け米)で混ぜて炊いていた。昔からこの地方は割と収穫量が多かったので稗や粟などは食べなかったらしい。さらに、32,33年前あたりからは耕作技術の向上により収穫量はさらに増え、毎食白米のみの銀米を食べられるようになった。 <村の発達> 電気・・・大正末には使用されていた。 プロパンガス・・・昭和35,36年くらい 電話・・・昭和30年中期〜後期 農業集落電話 昭和44,45年 家庭電話 テレビ・・・各家庭に普及したのは東京オリンピックの行われた昭和38,39年あたり <村の生活に必要な土地> 薪をとってくる山は個人で所有したり、5〜8人で共同購入して所有していた。共同の場合、木材の切り倒しや、薪わりなども皆で行い、それを分配していた。 この地方には、焼物を焼くのに必要な薪を造る山師と呼ばれる人々がいて、その薪を農家に売ったりもしていた。 <村の祭> 1月23日 曲川神社 春の礼祭 4、8月21日 御太師様(おじゃっさん) 集まってみんなにご馳走をふるまう。 8月16日 祗園祭(夏祭) 豊作を願う。以前は7月16日に行われていたが、毎年のようにその日は雨が降っていたので、25年前に現在の日取りに変更された。 10月16,17日 供日(くんち) 豊作を願う。 11月 神待(かんまち) 11月23日 逃げ餅 2月、8月 天神講 菅原道真 下本村の祭りは、神社の氏子(田を寄与したひとたちなど)が組織していた。 全負参加というわけではないが、少なくとも一家庭から一人は祭りに参加し ていた。 〈逃げ餅とは〉 逃げ餅とは、蒸したもち米を日に投げ入れた瞬間、青年達は杵を放り出して、そのもち米を掴んで逃げることから(逃げ餅)と言っている。この行事は岩屋権現さん(曲川神社)の秋祭りを11月25日に催されていたが、後に23日に変更されたので逃げ餅もその前日の22日の夜12時頃から餅をつきはじめていたが、最近では夜10時頃にはやまった。費用は一町ばかりあった祭田の小作料で賄っていた。 神座になったエイシヨの庭先には人だかりで一杯になる。エイショの両がヨ リコで、加勢をする。餅は2回つくが、供え物となるのは三升で、若者達が(しょいしょい)の掛け声でサシ棒でつく、棒の先で餅をさしあげるか、膝で臼を倒すかして餅を臼から放り出そうとする。周囲から見守っている壮年達はこれを防ごうとする。その攻防が展開され、泥まみれの餅を主婦らの手で丸められ、各戸2個ずつ配り、曲川神社に供えられる。泥餅の綺麗な部分を少し食べると病気しないという。残りは牛馬にもやっていた。 2回目の臼には二升のもち米を蒸して臼に投げ入れるが、餅つきの若者達は杵を放り出してもち米を手づかみに逃げる。これを食べると寿命が延びるというので奪い合いになる。逃げ餅の行事は、秋の収穫を終えて豊作を感謝する催しであって、泥すなわち大地を意味する泥併を食べ、神人一体となって大地の霊魂へ感謝するという意味が込められているのではないかと考えられている <村の昔の若者> 50〜60年程前の若者は昼間はもちろん農作業をやっていた。そして夜になると村の祭り(他の村の祭りにも)などによく足をはこび、そこで青春を謳歌していた。春には花見などを催して、酒は十分に飲めていた。また、そのころになるとすでに、夜這いは行われていなかったらしく、村祭りで踊りを舞う女性などに目をつけて恋愛にもちこんでいたらしい。青年宿(青年会)には夕食後毎晩のように集まり、泊まり込みで酒を飲んでいた。この青年宿には祭りの時と違って、他の村からはあまりたずねてこなかった。 <村のこれから> 現在では村の住人の割合は転移者がその7割を占めるようになり、それに伴い昔からの村本来の姿もうすれつつある。古来から取り行なわれてきた行事や伝統的な風習などの簡素化にみられるそれである。無論、生活を支える農業における問題も無視できるものではないが、いままでに挙げてきたような村を象徴 するような祭に代表される行事、風習をできるだけそのままの形で残していきたい。これこそ昔から村を見守ってきた人々の最大の願いである。 <日本農業への展望> 基本的にどうだということもないが、村のこれからにおいてでもそうだが、後継者問題が大きく挙げられた。これから(未来もそうであるとは限らないが)の農家は米を栽培していく程度では、生括は苦しくなる一方で、とても専業農家では余程耕地面積を広げない限り、生活に大きな余裕は生まれ得ないという 非常に厳しい現実がある。そのような状況下で有望な後継者が育つはずもない。まずはその環境を大きく改善し、様々な人々が農業へ従事し易いシステムを作ることこそ最も重要なことである。 一日の行動記録 AM 7:00 小鳥のさえずりで目が覚める AM 8:30 学校へ集合し、今日の調査に、期待に胸をふくらませる。 AM 9:20 服部教授の指揮の元、僕らは西有田町へと向かう。 AM11:30 下本村に到着。右も左もわからない。まるで、敵地に迷い込んだみたいだ。 PM 0:00 空腹に兼ねて、近くで昼食を済ます。 PM 0:40 公民館らしき建物を発見し、近所の方に尋ねると、実はこの方が我々を世話してくれる方で、びっくり。 PM 1:00 公民館に7名ほどのかたに来て頂き、熱弁していただく。 PM 3:40 共に杯をかわす。 PM 4:08 バスに乗り込み、家路へ。ふと故郷の父、母のことを思い出す。 PM 6:00忘れないうちに今日のまとめをやる。 |