西有田町大木宿 1LA99221 前田幸永 1LA99189 榮岩智也 1,(1)しこ名 整地(セイチ) − チャバー 道行(ドウコウ) − ドウデ 川口(カワグチ) − コウクチ 山門(ヤマカド) − ヤマンカド、ゴンヂ山 八郎山(ハチロウザン) − タケノハシ 桑原(クワノキバル) − カヌキバラ 上原(ウワバル) − ウワバー 前田(マエダ) − マエダンツジ 立木原(タチキバル) − タチンバル 千歳山(チトセヤマ) − トドロ 平瀬(ヒラセ) − ヒラセマエ 佐後(サゴ) − サゴヒラ 佐子平(サゴヒラ) − コゴンヒラ 柳原(ヤナギハラ) 中原(ナカバル) 併せて ヤナギバラ 登道(ノボリミチ) − ジャドウ 竹田(タケダ) − タケダイナリサン 大道・薬師如来 − ヤクサン 道行橋(ドウコウバシ) − ドウデバシ *大木宿(オオキシュク)の由来 昔、唐船(トウセン)は中国から来た船に有田焼を積荷するところだったが、その商人たちが泊まっていた宿がこの地にあったことから「大木宿」という名が付いた。 2、水利 水田にかかる水は有田川から引いている。上流の蔵宿にある通称「風船玉」と呼ばれる機械によって取り入れられ、水路によって大木宿の水田まで引かれている。 (1) 干魃 この地区でとくに大きかった干ばつとしてあげられるのが、昭和42年秋に起こった干魃である。この干魃によって農作物はもとより、飲み水にすら影響があった。この時はまだ水道が引かれておらず、井戸水を使用していたが、その井戸水も出ないほどだった。そのため、井戸水がまだ出ている家が飲料水だけでも他の家に分けてあげていたらしい。さらにこの年の7月9日には大水害が起こっており、干ばつと水害によって米などの農作物はほとんど全滅に近かった。1994年に起こった干ばつの時は農業用ダムの古木場ダムがあり、それのおかげで特にひどい被害はなかった。 (2) 水害 いままで特に大きな水害は昭和23年と昭和42年におきている。昭和23年9月の水害では死者が9名もでるほどひどいものだった。台風によって有田にあるダムが壊れたために、水が一気に有田川に流れて、氾濫が起こったことが原因だった。その結果、稲は壊滅状態だった。また現在の牧橋あたりに当時中学校建設のための材木がおかれていたのだが、それが全部流されて村人全員で伊万里湾まで探しに行ったことがあったらしい。昭和42年7月9日におこった水害も大きかった。整地にある水田は全部水につかった。 (3)「風船玉」について 「風船玉」というのは川口と蔵宿にある小規模なダムのようなもので通称こう呼ばれている。いつもは特殊なゴムのパイプの中にコンプレッサーによってエアーを送り込んで、パイプをふくらませて水をせきとめダムの役割を果たしている。この「風船玉」の一番の特徴は台風や大雨などで有田川の水が増水し、川が氾濫しそうになると、「風船玉」が水圧を感知して、ある一定の水圧になると自動的に空気圧が弱くなって、貯めていた水が流れるようになっている点である。蔵宿にある風船玉によって貯められた水は、水路によって大木宿の水田のための水として利用されている。ただし、有田川の水だけでは全部の水田の水をまかなえないため、蔵宿から引かれている水路をいったん浄源寺川に合流させている。合流させることによって水量を多くし、再び水路によって大木宿の中心部を通って各水田に利用されている。川口にある風船玉によってためられた水は下山地区の水田のための水として利用される。 3、村の発達 (1)水道 昭和50年春から簡易水道が入った。それ以前は井戸を使用していた。現在、水道水は竜門ダムからきているが、竜門ダムは伊万里市と共有であり、しかもその比率が伊万里市6に対し西有田町4である。その上この竜門ダムは飲料用ダムではなく、多目的ダムのため、絶対的に水の量は不足している。そのため、現在は農業用ダムである古木場ダムの水の一部を飲料用として使用している。 (2)プロパンガス プロパンガスが初めて入ったのは昭和38年。プロパンガスが入る前は、家庭の家事用などの火にはまきが使われていた。また節約のため、風呂は地区にいくつか共同風呂があり、その燃料には石炭が使われていた。まきは個人の山から切られていた。山はほとんどが個人所有の山で入り会い山はなかった。個人の山を持たない人は営林署が行っていた定期的な払い下げによるまきを買っていた。その他、麦わらは米をたいたりするのにまきがわりとして使用した。 (3) 電気 電気がきたのは昭和7年頃。それ以前は菜種油、灯油を使用していた。 4、村のまつり (1)龍泉寺の十八夜 西有田内では最大の祭り。毎年8月18日、18歳〜30歳までの男性によって浮立が行われる。1658年、大干ばつがおこり、もはやどうしようもなくなった時、その年の8月18日に龍泉寺の住職が伊万里にある水神さまに雨乞いを行った。その1週間後、雨が降ったということに由来している。 昭和17年、戦争のため国から鐘の給出があり、昭和24年に新しく購入するまでの間、女子のよるおどりなどで一応祭りは継続するものの、メインである浮立は中断されていた。また、奥の院の二十一夜というのもあり、そこでは31歳から45歳までの男性により浮立が行われている。しかし浮立を行うには少なくとも70〜100人は必要だが、近年は若者の不足により 1999年からは龍泉寺の十八夜と奥の院の二十一夜の浮立を合併して行われる予定である。 (2)金比羅祭 戦時中、兵隊の安全を祈願のためにまつられたのが金比羅神社。その神社で毎月10日に行われる。特に7月10日に行われるのは盛大である。 5、耕地と米 (1)耕地 有田川周辺の土地は砂地であり、山沿いの粘土質の土地よりも米はずっととれなかった。昭和30年代になり、「ケイカル」つまりケイ酸カルシウムの普及により効率はぐんとのび、現在ではほとんど差はない。また棚田米は生活排水が混ざらないため、良質でおいしい米が以前からとれた。 (2)戦前使用された肥料 戦前、化学肥料が普及する前使われた肥料として、主に堆肥があげられる。山から草を刈ってきて、それを牛舎にしき堆肥としたり、発酵させて堆肥としたりした。また、魚市場から弱った魚を村で共同でしいれて、それを肥料としたり、人糞を使ったりもした。 (3)村の動物 牛か馬の少なくともどちらか一頭は名家で飼育されていた。昭和30年代までは農業も牛馬が主体だった。その後、機械化により、名家の牛、馬は農協により集められ、畜産団地で畜産業が始められた。 (4) 米 戦前、この地区には2つの大地主がいて、その他の農家はほとんどその小作人だった。米はその地主に小作料として納めたが、全体の6〜7割も納めねばならず、たいへん苦しかった。そのため、一部では青田売りもあっていた。 7、村のこれから (1)昔とかわった点、これからの農業 昔の農業は手間が掛かり、苦労したが、その分米の値段もそれなりに高かった。機械の出現で現在は昔よりずっと楽になったが、米の値段もうすれてきた。そのため今では農業だけでは苦しく、他の所得に依存せざるを得なくなった。現在専業農家は全体の3%ほどしかなく、ほとんどの農家が兼業農家である。昔は有田の焼き物の仕事と兼業だったが、現在では焼き物以外の電気、電子関係などの企業の誘致なども行われており、そのような会社と兼業という家も増えている。また一方で、農業の活性化の対策もなされている。家畜のフンをどうにかして利用したいということから、現在では米の裏作などでそれらを有機肥料として使った玉ねぎ、アスパラ、大豆などの生産が積極的に行われている。また、良質の米がとれる棚田米の促進や水田のオーナー制度などの取り入れによって農業と村の活性化をはかっている。しかし、同時に後継者問題は深刻で、専業でやっていこうと思っている若者は非常に少なくなっている。 8、その他 (1)整地付近は圃場整備の計画が明治33年になされ、35年に工事が始まった。これは佐賀県内の圃場整備の中で2番目にはやい。 (2)現在大木宿にある龍泉寺は本来は平瀬山にあった。300年前に今の場所に移った。そのため今も“平瀬山龍泉寺”と呼ばれる。また、この寺に納められている過去帳によって初めて有田焼の祖、李参平についてのことが明らかになった。 7月10日 一日の行動記録: 11:30現地着→12:20〜14:40話を聞く→14:40〜15:30写真を撮る 聞き取りした方の名前 |