現地調査レポート
調査日:平成11年7月10日 調査地域:西有田町二ノ瀬
1LA99173 永住幸輝
1LA99208 福嶋啓至
《行動記録》
11:40頃 現地到着
12:25頃 堀さん宅に到着
12:30〜14:30頃 堀さん・川原さんからお話を伺う
14:35〜15:20頃 堀さんに自動車を出していただき、川原さんの案内で平古場溜池・日向郷溜池・有田川の水路トンネルや堰をまわる。
15:30頃 集合場所に到着
《聞き取り相手》
・川原一義:昭和7年生まれ
・堀忠好:昭和13年生まれ
《村の範囲について》
小字図によると、二ノ瀬地域は柳ノ元・開田・林ノ浦・一本谷・道海・舘中・平古場・風下・風吹・楠久保・新牧・栗原・二ノ瀬・笹林の14の小字とされているが、地元の人の話によると、南にある牧地域の小字である南谷・上原及び下山谷地域の竹ノ上は、二ノ瀬地域に含まれている、とのことである。
《しこ名》
村の名前:二ノ瀬
田畑 小字:ヤナギノモト(柳ノ元)のうちに
ヤナギノモト(柳ノ元)のまま
小字:ヒラキダ(開田)のうちに
ニノセバル(二ノ瀬原)、メオトイシ(夫婦石)、タナダ、
ソーベシ(総部石)、キュージャヤシキ(久左衛門屋敷)
小字:ハヤシノウラ(林ノ浦)のうちに
チャーコイシ(太鼓石)、ヒャシノウラ(林ノ浦)、トノモト(唐元)、
スザキ(水先)、オモテ
小字:イッポンダニ(一本谷)のうちに
クボンタニ
小字:ドウカイ(道海)
なし
小字:タッチュウ(舘中)のうちに
シンチ(新地)、コニュウド(小入道)、タッチュウサン(舘中さん)、
ウータ
小字:ヒラコバ(平古場)のうちに
ヤマナカ
小字:カザシタ(風下)のうちに
サンジャヤシキ
小字:カザフキ(風吹)のうちに
なし
小字:クスクボ(楠久保)のうちに
なし
小字:シンマキ(新牧)のうちに
なし
小字:クリハラ(栗原)のうちに
なし
小字:ニノセ(二ノ瀬)のうちに
カキウチ
小字:ササバヤシ(笹林)のうちに
なし
ほか 小字:クスクボ(楠久保)のうちに
ヘントウ(辺頭)
小字:ドウカイ(道海)のうちに
ユーダ(湯田)
小字:タッチュウ(舘中)のうちに
ヤマノカミサン(山神さん)
小字:シンマキ(新牧)のうちに
ゴウセキ(郷石)
《周辺地域について》
タケノウエ(岳ノ上):二ノ瀬と伊万里市の境界のあたり。
シライワンシタ(白岩下):二ノ瀬の南、牧ノミナミタニ(南谷)あたり。
《水利》
・平古場溜池
使用地域:開田、二ノ瀬、平古場、舘中
・日向(ヒナタ)郷溜池
使用地域:この溜池は平古場溜池の水量不足時に補充するための予備溜池。
・笹林溜池
使用地域:笹林
・豪石溜池
使用地域:道海、新牧、ウワバル(上原、隣村の牧の小字)
・新牧溜池
使用地域:楠久保
・有田川(後述)
使用地域:林ノ浦、一本谷
《調査内容》
二ノ瀬では14の小字がある。そのうち林ノ浦、舘中、平古場といった有田川沿いの地域というか平地にしこ名がたくさんあった。その中で林ノ浦というところにあるスザキと呼んで水先と書くしこ名があったが、そこは有田川から引いた水路の終点ということからこの名が付けられたそうである。また一本谷にあるしこ名がクボンタニと呼ばれるところにも、その土地がくぼんでいるところからその名前が付けられたそうである。他に変わった特徴としては、開田にあるキュウジャヤシキ、風下にあるサンジャヤシキといった「〜屋敷」というしこ名のつけられた場所があったこと、また舘中にあるタッチュウサン、ヤマノカミサンといった、その土地のほこらに「〜さん」という呼び名をつけられたしこ名もあった。その他、二ノ瀬地域に関することとしては、道海にあるユーダと読んで湯田と書くしこ名が付けられている地域には昔、草競馬場があったそうである。また現在、夫婦石駅という駅がこの地域にあるが、この「夫婦石」というのは、その駅の近くにある有田川に「夫婦岩」と呼ばれる岩があり、そこから名前が付けられたのではないかとの話である。この二ノ瀬地域は以前、大山町山谷というところであって、山谷にも「甲」と「乙」がある。この区別は、有田川より東を「甲」、西を「乙」とするらしく、そのため、二ノ瀬地域は「甲」の方となる。現在でも二ノ瀬地域の住所としては西有田町山谷甲となっている。そして「甲」の方、つまり有田川以東の地域に田んぼを持ち、「乙」の方、つまり有田川以西の下山谷地域に住まいを持っている人が多いということだ。
次の水利について。この二ノ瀬地域には大きなため池が5つある。この5つの溜池は共同の溜池である。まず平古場溜池について。この溜池はちょっと高いところに位置しており、そのためその高低差を利用してその下にある地域に水を引いている。この溜池は斜面をコンクリートで一部固めてある。そのコンクリートが地面と水平になるように固めてあるところがあり、そこよりも水かさがあると、そこから水が流れ落ちるわけであるが、そこよりも水かさがなかった場合は、斜面のところに穴があり、その穴から水を流して水を引くということである。この溜池は10ヘクタールほどの広さで、水量が約6万トンであるそうだ。次の日向(ヒナタ)郷溜池について。この溜池は平古場溜池の予備溜池であって、勝手に水を引くことは許されない。その日向郷溜池の北にある笹林溜池も同じく平古場溜池の予備溜池である。これらの二つの溜池は普段、水路の入口が閉められている。次に豪石溜池について。この溜池は平古場溜池と同様に高低差を利用して水を引いている。最後に新牧溜池について。この溜池は新牧あたりに広がっている果樹園を潤す水路が引かれている。その他この地域には小さなため池が多数あるが、これらのほとんどが私有の池である。溜池以外にも有田川から引かれている水路がある。しかし有田川はその周辺の水田よりも低いところを流れているので、人工的に川に段差をつけている。これは川を横切るようにゴムをおいて、そのゴム内にエアーを入れて膨らませる。そうすると段差ができるというわけである。その段の上段と同じ高さの田へ水を引くため、水を引くのにポンプアップするとかいった電力が必要ではないわけである。この水路は有田川以東で使われているが、西側でこの水路はあまり使われない。またこの水路は渇水のとき、溜池からの水路へ水をポンプアップするのに使われたということである。
村の耕地については、圃場整備以前は湿田があったそうだが、圃場整備によりほとんど乾田となってしまったそうである。昭和35〜38年頃までは麦や菜種を裏作としていたが、それは今ではほとんどなくなってしまったそうである。戦前は肥料として堆肥を使っていたらしい。昔は米が6俵できれば大変良かったらしいが、今では8、9俵が普通に収穫できるということだ。米以外のものは物物交換で手に入れていたということで、実際ヤミ米取引が行われていたという話である。昔は米を籾のまま保存していて食べる時に精米していたらしい。その頃、普段は麦飯であって、米は正月などの特別なときにしか食べられなかったということだ。
牧畜について、昔は牝牛を多く飼っていたらしい。というのも子牛を売るために牝牛が飼われていたということである。博労はいたということだ。
道に関しては牛や馬に米を乗せて運ばせるのに使われていただけでなく、スラ(そり)、シャリキ(馬車)が通っていた。小字の名を道の名前に付けていたということだ。
祭は今でも夏祭りとくんちが残っており、浮立も行われているらしい。それは当番制となっていたということである。
昔の若者の娯楽については、となりの伊万里へ映画を見に行っていたらしい。他にはだいたい酒を飲むことで、どぶろくを飲んでいたということだ。たまり場は公民館でとなりの村からも来ていたということで、となり村との交流はあったということである。