西有田町牧

1LA99183 野上裕貴

1LA99202 平木一幸

話者:桑原博 昭和10年生まれ

 

小字  平瀬(ヒラセ)     チョッパゲダン

    長田原(ナガタバル)  セイガクサン

ホリノタニ    堀の谷

フクイシ     福石

ショウケヤマ  → ざるみたいなもの

    上原(ウワバル)    マツバシ     松橋

               ヤマナカ     山中

    湯田原(ユダバル)   ヤセマ     →土地がやせていた?

    昔温泉が出ていた   ヘゴ(ヘゴンタン) 部子

    山谷牧(ヤマダニマキ) マキウチ     牧内

               *牧内の中に クロイワダン 黒岩谷

               コマズリ

               *こまずりの中に セトノシリ 瀬戸のしり

 

質問1:村に電気、プロパンガスがきたのはいつですか。また、それらが来る前はどんな生活だったのですか。

答え:電気は昭和のはじめ(昭和十年以前)からあった。ガスは昭和四十年代になって使えるようになった。電気がない時代は米の保存方法が今と大きく違う。今は冷蔵庫に保存するらしいが、昔は業者に頼んで作ってもらった缶につめて保存していたらしい。また、ガスのなかった時代はやはりまきが主な燃料だった。近くの金比羅山にいつもまきを取りに行っていた。金比羅山は村の共有地である。金比羅山から遠い人でも来ていたらしい。また、昭和二十八、九年ごろにはまきを焼き物屋に売っていた。

 

質問2:肥料についてお尋ねします。化学肥料が導入される以前と以後何か変化はあったのですか。

答え:化学肥料が導入される以前は牛肥を使っていた。牛をたくさん飼っている家などは、麦と交換で牛肥を売っていた。農協が化学肥料の利用の仕方を指導するので、土地がやせたり、収穫高が減少することはなかった。

 

質問3:米は農協に出す前の時代は、いつ誰に渡したり、売ったりしていたのですか。また家族で食べる飯米はなんといったのですか。米は缶にいれて保存するということですが、虫やネズミの害はなかったのですか。

答え:農協は昔から(明治時代から)あったのでそれ以前のことはわからない。飯米のことは保有米といい、家族の人数によって家に残していい量が決まっていた。米は缶に入れて蓋をしていたので、ネズミの害はなかったが、虫がわいて米がダメになることはあった。

 

質問4:五十年前の食生活について教えてください。

答え:戦争中は米不足で粟を食べていた。牧は海から遠いので、魚類や志尾などは農協で買っていた。また、魚については魚屋が玄界灘で水揚げされた魚を直接行商しに来ていた。鮮度はよかった。

 

質問5:牛や馬はいたのですか。各家に何匹いたのですか。

答え:牧は昔は畜産がとてもさかんだった。村全体の戸数は三十八戸だが、そのうち二十戸が牛を飼っており、一戸当たりの平均頭数は十五頭くらいであった。家によっては四十頭飼っているところもあった。しかし、今では数軒しか牛を飼っていない。

 

質問6:村の祭、神様について教えてください。

答え:八月十五日に山田神社の氏子(約四百家)により、夏祭りが催される。しかしこれは六年に一度しかない。風流保存会という組織があってこの祭りを支えている。夜店もたくさん出る。八月二十四日は部落の祇園がある。これは毎年である。また、十二月十八日には部落の「うーまつり」というものがある。一戸から一人ずつ参加する祭りで、昔は個人の家でやっていたが、公民館が出来てからは、公民館でするようになった。山田神社のことであるが、この神社は変わった特徴が有り、山田神社の中には八坂神社というもう一つの神社があるらしい。それが何を意味しているかは不明である。

 

質問7:昔の若者の生活について教えてください。

答え:中学または高校を卒業して働いている独身の若者は仕事が終わって家に帰ってくるとまず夕飯を食べ、風呂に入って青年会(今の公民館)に集まる。同じ部落の若者が二、三十人くらいそこに来て、酒を飲んだり、談話したりして夜を過ごす。そして、家に帰らずそこで眠ってしまう。そしてまた朝になると仕事にいく。結婚して世帯主になると、そこに来ることはなくなる。ちなみに女性は青年会に来ることはない。ときどき他の部落の若者が遊びに来て、一緒に遊ぶこともあった。他部落と争うなどということはなく、中がよかった。

 

質問8:現在の村の様子はどのようなものなのですか。

答え:昔はみんなが農業、畜産をしており、ほぼ自給自足の生活をしているが、今は兼業農家がほとんどである。現在の農家の抱えている問題は後継者問題であるが、牧の場合はほとんどの家に後継者がいる。その人たちは平日は公務員、会社員をしているが、土日になると農業をしている。そういう点では村の未来は明るいと言える。

 

質問9:田の水はどこから引いているのですか。また、それらの水はほかの村と共有していますか。

答え:ここらの田は全て溜池から引いている。具体的にいうと加地木池で部子、湯田原、長田原の南の方をまかない上原溜池で長田原の北の方付近をまかなっている。加地木池よりも上の方では山からの出水で充分まかなっている。また、溜池はどこの村とも共有しておらず、牧固有のものである。この溜池を管理するのに各溜池ごとにふうつさん(溜池の管理者)2名ずつ選んでいる。このふうつさんは非常に権限が大きい。

 

質問10:裏作などは行いますか。また行っているとするとどの付近ですか。

答え:裏作は肥えているところでやっている。湯田原、長田原、平瀬付近がそうだ。

 

質問11:数年前にものすごい干ばつがありましたが、そのときはどうしましたか。また、それ以来、水利に関して特別な対策をしましたか。

答え:川の水を個人がポンプで汲み上げた。だからポンプは各個人が所有している。そのときはこれで対処できた。それから水対策のために下水道排水が設備された。下水をきちんと処理してポンプで処理場から上の方へ汲み上げて農業用水として利用している。

 

牧地区の公民館:

数年前に新設されたらしく、まだ新しかった。僕たちが訪ねたときは人の気配はなかった。公民館ができるまえは、牧の集会などは個人家で行われていて大変だったらしいが、公民館ができたあとはすべてここで集会が行われるようになった。十二月十八日の「うーまつり」もここで行われるらしい。

 

加地溜池:

この池はめったなことでは干上がることはないそうだ。いわばこの村の水がめと言える。実際に行ってみると、結構大きく深さもあるようでこれならば少々の干魃には耐えられそうである。この池が決壊したことが桑原さんが知る限りでは昭和23年の洪水(23)1回だけだそうだ。



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