西有田町桑木原 1MD99048茂地智子 1MD99094 森順子 [調査目的] 日本の農村における旧水田につけられた地名、及び水利慣行には古い歴史を持つものが多く、これらは地域の歴史を知る上で大きな位置を占める。しかし、現在ではむかしのことを知る人も少なくなっており、このまま放置すれば完全に忘却されてしまう恐れがある。そこで、現地に赴き土地の人から直接得た情報を資料として記録に残すことが、今回の調査の目的である。 [調査場所] 佐賀県西有田町桑木原 [実施日] 平成11年7月10日(土) [お話をしてくださった方] 樋渡悦子さん(50歳) 川久保常松さん(72歳) ○桑木原の範囲 ハチロウヤマ(八郎山) ヤナギワラ(柳原) クワバル(桑原) ウワバル(上原) シゲオ(重尾) カシヤマ(樫山) タケ(岳) クワバルとウワバルの2地域にのみ人が住んでおり、クワバルはウワバルに対する場所としてシタバルとも呼ばれている。 ○主な水源地 カカダ(森々田)溜池 〈岳〉 ヤナギワラ(柳原)溜池 〈柳原〉 カリダチ(中尾)溜池 〈中尾〉 オレキ(折木)溜池 〈大鳥ヶ倉〉 隣の部落 イコシ(伊古石)溜池 〈伊古石〉 ○水不足になったときの対応 クロカミヤマ(黒髪山)雨ごいをしに行く。 なお、平成6年夏の渇水時には、地域としての対策といったものは特にしていない。 ○水路・橋について これらにもしこ名はない。(小さい川であるから) トウシコ(頭首工)・・・河川に堰をして水を流すようにするもの ニタンクビ(二首) イチノイデ(一井出) ニノイデ(二井出) サンノイデ(三井出) ○水をひくときの規則 溜池から放水するときは、兄弟部落である山本と相談して放水する日を決める。特に決まりはないが、上流の方から堰止めをしていく。この地域は溜池が多くすい資源が豊富であるため、過去に部落間の水争いはなかった。 水門を管理する人=フウズ(封通) ○草切場及び家畜について 牛や馬を飼っていた頃は岳に草切場が存在していた。現在その場所には植林が行われている。 牛や馬は1ヘクタールの耕作地を持つ人で、1軒に1頭。たいてい、牛は雌牛(黒牛)。 村の家畜において、牛と馬の割合は半々となっており、他地域に比べると馬が多かった。 バクロウは、部落内にはいなかった。 ○田の良し悪し 地質 地力 風向き 田の質は、これらによって違う 台風の被害 北・・・悪田 北風の影響や台風の被害を受けるため、南北で1ヘクタールあた 南・・・良田 り60kgほど収量が異なる。 また、山の方が冷たいので稲の生育に適する、溜池から水を引きやすいなどの理由により、川の上流の方が良い米ができる。 ○化学肥料 使い始めたのは大正時代からであるが、本格的な導入は終戦後。 ○共有林〈岳〉 スギ。燃料用の薪を取っていた。 ○米の売買及び保存 農協ができたのは昭和14,5年ころであり、それより以前は産業組合。 村でまとめて出荷するようになったのは、大正時代の末から終戦にかけてまでのあいだであろう。 青田売り・・・小作人は小作料として収穫の半分ほどを地主に収めねばならなかったので、現金を得るため、収穫前に田を商人などに売った。これを青田売りという。川久保さん自身は、親から昔はそんなこともあったと聞いたことがあるだけで、昭和期には既になかったのではないか。 家族で食べる米・・・ホユウマイ(保有米) 家庭によって異なるが、麦を2〜3割ほど米に混ぜて食べていた。 米以外の主食 稗は作っていなかった。うる粟が少しで、ほとんどは糯粟。 種籾は紙袋に入れ、ねずみに食べられないよう木桶の中で保存した。 ○道路 戦前は現在の国道と平行して走っている旧国道しかなかった。国道が舗装されたのは昭和40年代。その他の道は、戦後から順次舗装された。以前なかった道は、地図に×で記す。 ○祭り オオギ(大樹)神社 7月18日 ・・・六集落が交代で担当 龍泉寺 8月18日 お稲荷さんの祭り 9月23日 夏祭り フウリュウ(浮立) ・・・ 笛・鐘・太鼓・のきだち ヤマダニ(山谷)浮立 オオギ(大樹)浮立 合わせてオオヤマ(大山)浮立 マガリカワ(曲川)浮立 1番大きなものはオオギ浮立 老若男女を問わず参加し、女性は小さな太鼓を演奏した。しかし、現在では楽器を演奏できる人が少なくなっている。 ○若者の生活 各集落に青年クラブがあった。 表向き ・・・ 集落の建物で、集会をする場所。 夜は男子だけが泊まって遊び。特にはやった遊びなどはない。 青年団 ・・・ むらや町単位で構成され、さまざまなクラブがあり、他部落との交流も盛んであった。 体育系・文化系・婦人クラブなど ○収入となる農作物 米が中心。 野菜を販売用に作ることはなく、自家用に玉ねぎなどを少し作る程度。 ○農作業の仕方の変化 昔は牛や馬を使って桑で田を耕していた。 昭和30年代からトラクターが、50年代から耕作機それぞれ使われはじめる。 ○村の変化 人口は、近年では町全体ではほぼ変わらない。 昔はほとんどが専業農家であったが、今は専業農家はいない。 1軒あたりの田の平均面積は約60アール。耕作の放棄により、荒廃田が増えたため、面積は減った。 国の農業政策は一時しのぎのものばかりであり、農業の先行きは暗い。 [地図の色分けについて] 川・水路・谷・・・青 主な尾根・・・緑 道路・・・茶色 高圧線・・・桃色 墓地・・・橙 [まとめ] この調査の目的はしこ名を集めることであったが、桑木原は小さな集落で住宅地の範囲も限られているため、田んぼをひとまとまりにして小字を使って呼んでおり、しこ名というものは存在しないらしい。また、川も小さいので川や橋にも決まった呼び名はなく、堰にだけ便宜上名前がつけられている。 土地のことに詳しい人たちが皆都合がつかなかったため、やや情報を集めにくかった。特に女性の方は他の部落から嫁いできたなどの理由により、農業や桑木原の慣行のことはあまりわからないという人が多かった。数時間の調査では収集できた情報にも限りはあるが、実際に現地の年配の方から普段聞けないお話を伺うことができ、非常に貴重な体験となったと思う。思うようにいかないことも多かったが、自分たちで準備をし、自分の足で歩いて調査を行うという機会が与えられ、本当の意味で「歩いて歴史を考える」ことができた。 |