西有田町黒川

1AG98148中島敬太郎

1AG98128  田中嘉人

一日の行動記録

900  学校集合

1100  バスから下車

1130  地元の小学校で食事 質問の最終チェック

1200  南区長さんの家に到着 公民館に案内される

1300  南さん、岩永さん、山口さんからお話を聞く

1600  公民館を出発する

1610  バスに乗車

1800  学校到着 解散

 

・黒川の説明

私たちは『歩いて歴史を考える』の現地調査で黒川という町を調べることになりました。地元の人によると黒川はもともと黒郷と書いてクロゴウという街だったそうだ。だが、いつからか黒郷というよりは黒川と呼ぶことが多くなってきた。それゆえに、今でも地元の人は黒川と書いてクロゴウと呼んでいる。黒川に存在する橋や、踏切は未だに黒郷という字が使われている。

 黒川が属する西有田町はマガリカワ(曲川)村とオオヤマ村が30年くらい前に合併して誕生した村である。

 

・黒川のしこ名

カミグミ(上組)、シモグミ(下組)、カヤキリ、ノボラ(野原)

この中でカヤキリの別名がスキサキ(鋤先)がある。

 

しこ名が少なかった理由として考えられること

黒川は田が少なく、もともと昔は家も50戸にみたないくらい少なかったのでしこ名の数も4つと割合少なかった。

 

イデにはワイデ、スイシャイデという名のものがあった。

 

村の名前として昔呼ばれていたものは、全てしこ名と同じ名だった。

カミグミ(上組)、シモグミ(下組)、カヤキリ、ノボラ(野原)

 

・村の水利

黒川に属するカミグミ、シモグミはもともと田が少なかったので、溜池を必要とせず、黒郷川だけから水を引いていた。またカヤキリの田も黒郷川から水を引いていた。また、カヤキリの田も黒郷川から水を引いていた。その黒郷川は仏原と共有していた。

ノボラは溜池から水を引いていた。その溜池には特に名前はつけられておらず、しこ名同様ノボラと呼ばれていた。

隣村との水争いは存在していたが、それに加えてまた黒川の中でも水争いが絶えなかった。特に不作のときには争いは激しいものとなった。そのような争いが黒川の中でも存在していたのでミズモリ(水守)と呼ばれる溜池の責任者が必要となった。当時、天気予報はなかったので、天気を前もって知ることができなかった。それゆえにミズモリの仕事は重要なものであった。それはミズモリの判断で溜池から田に水を引くことができたからである。

1994年の大干ばつの時にはほとんど被害を受けなかった。それは黒川には後で述べるようなフケタという湿田が多かったためである。

1942年の大干ばつの時には、クトカミ山に雨乞い祈願に行った。

 

村の発達

電気とプロパンガスは昭和になってから入ってきた。

 

村の耕地

 黒川では乾田はほとんどなく、湿田が多く存在する。黒川で地方ではこの湿田のことをフケタと呼んでいる。フケタとは雨が降らなくても湿っている田、つまり田の下から地下水が湧いていてその地下水で田を湿らせている。フケタは雨が少ないほうがいい。それゆえに前述したように黒川は干魃に強い。

 また、黒川ではドヨウボシという作業が行われている。ドヨウボシとは田の土が割るまで水を引くことである。このドヨウボシをすることで土壌もかたまり、また根も強くなると言われている。これにより横風に強くなる。ドヨウボシは8月頃に行われる。このドヨウボシは現在でも行われている。

 

黒川では化学肥料が入ってくる前は人糞を肥料として用いていた。

村の生活に必要な土地

黒川にはキタノコチダケ(通称ニシンタケ)と呼ばれる町有林が存在した。

 

・米の保存

米を農協に出す前の時代は、農家の人は米屋に直接米を売っていた。そのときの取引には米相場というものがあって、それが用いられていた。米相場は頻繁に変わっていた。

 米は各家庭にあるカマス(60kg入る)というものの中に入れられて保存された。そのカマスはネズミ対策もかねていた。50年前の食事における米と麦の割合は73であった。これは他のところに比べると麦の割合が少ない。というのも前述したように黒川はフケタ(湿田)が多いため裏作で麦をほとんど作ってなかったからと考えられる。

 

・村の動物

 黒川でもやはり牛、馬が飼われていた。この牛と馬は田を耕すときにトラクターがわりとして用いられていた。また牛はバシャキという当時の運送屋の役も兼ねていて米などを運んでいた。

 牛、馬を育ててそれを農家に売るバクリュウという人もいた。バクリュウは主に兼業農家で雌を育てて、子を産ませてそれで生計をたてていた。そのときコッテイ牛と呼ばれる雄牛はやすく取引されていた。

 ドウビキ牛という木などを運ぶ、重労働専門の牛は高い値段で取引されていた。

 

・村の道

 黒川の人によると一般的には道に名前がつけられることは、地理的に不便なところに多い。例えば離れたところに集落をもつ村はその離れた村に行く道に名前をつけることが多い。それゆえに黒川のように地理的に開けた時には道には特別な名前はつけていなかったらしい。ただし黒川においては『シモグミの前の道』のように道の名前をしこ名で呼ぶ。

 

・祭り

 黒川には825日に黒郷八幡宮のテンジン様に豊作祈願をする祭りがある。この祭りは西有田町全体でギオン祭りとして行われている。このギオン祭りは726日から西有田町全体で行われる。それゆえに726日から1ヶ月は西有田町の至る地方で日替わりで祭りが行われている。

 

・村の若者

 テレビも映画もなかった時代、若者は夜、青年小屋と呼ばれるところに集まって酒を飲み、村の若者と団欒をしていた。ほかの村との交流としては、726日から始まるギオン祭り以外にはほとんどなかった。

 黒川では1130日にカンバチ相撲という行事があって、それで相撲の強い人を他の村から招待してほかの村との交流をはかっていた。このカンバチ相撲は1130日という寒い時期に行われるので火をたいて酒を飲んで体を温めていた。

 

黒川でお世話になった人

南信隆さん(区長)65歳 昭和92月生まれ

岩永幸次郎さん:72歳 昭和23月生まれ

山口一夫さん:76歳 大正131生まれ

 



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