歩いて歴史を考える(楠木原) 1MD99 武谷賢二 1MD99069 長尾吉泰 1、 村の溜池について 昭和56年から3年間、楠木原で県営の圃場整備が行われ、すべての水田に通ずる水路が確立したが、それまでは溜池の水を上から垂れ流すという方法で水を利用していた。昔は一家に一つは井戸があったが、溜池の水は水田用だけではなく生活用水としても使われていた。 溜池を管理したのは“封通”と呼ばれる人でこの人が溜池の栓の開け閉めの管理を一手に引き受けていた(火事のときなどは例外とし、気づいた人が栓を開けに行った)。封通は村の人の合意のもとで推薦のような形で選任された。また封通は大雨の日などに溜池まで出かけていって栓を閉めなければならないなど肉体的に辛いこともあるため、おおよそ世代交代と時期を同じくして封通も交代していった。 福島勝太郎さんが実際に自分たちを連れて行ってくれた溜池に上境原溜池があるのだが、これはもともと水路がなく畑だった上境原に水路を引くため大正15年に完成したものである。上境原からその溜池まで車で15分ほどかかり、途中坂道もあり、当時の工事がいかに大規模なものであったかが実感できた。昔は畑では生計を立てられるほど儲からず、水路をひき、水田を持つことに必死であったそうである。 2、 水田について 地図を見てもわかるように、楠木原の地形は山や谷が多く水不足にはずいぶんと悩まされていた。特に谷間の水田や下の方にある水田は水が行き渡らないことがあった。 肥料は人糞と家畜(専ら牛)の糞、それに原野から刈ってきた山野草を使用していた。 3、 米以外の収入源について 裏作として麦や菜種を栽培していた。 牛は一家に一頭は農業用に飼っており、そのほとんどは雌牛で子牛を生ませそれを市場で売っていた。市場は8のつく日に開かれていて、5月7、8、9日は特に盛んであった。市場に出したものとしては他にむしろなどがあった。これは冬に稲作でできたわらから作るもので、冬の時期の収入源となっていた。 森林は専ら私有林であったが、収入源となる杉や桧などは昭和30年頃に植林が推奨されるまでなかった。 楠木原では他に戦前、養蚕が盛んであった。 4、 電気、ガスについて 電気が通ったのは大正12年のことであった。当時の村の人は田舎生活から脱皮した喜びがすごかったそうである。 現在のプロパンガスがきたのは今からおおよそ20年前頃である。それまで村の人はマッチで火をおこし、焚き木をしていた。薪を山から拾ってくるのは重要な仕事だった。また戦時中は物不足のためマッチもなくなってしまい、火が絶えないように管理者をつけて火を燃やし続けたそうである。 5、 若者について 当時の若者は普段は家の農家を手伝うのが常であった。他村との交流もほとんどなかったそうである。ただ7月15日の祗園祭をはじめとする祭りのときに際しては他村の神社に行って交流を深めていたそうである。当時の祭りは神社前に若者が集まり相撲をとったりして、それが若者にとって一番の楽しみだったそうである。 6、 松永淳夫さんについて 水田が目立つ楠木原の中にぶどう畑が一際目につき、訪ねてみたらお話を聞くことができたので記載する。 淳夫さんは農学校を卒業し、酪農を始めたが糞の処理がうまくいかず失敗した。昭和32年、友人から巨峰の種を譲り受け、ぶどうの栽培を始めたそうである。当時ぶどうの栽培は話題となり、60軒もの家でもぶどうの栽培が始められたが、巨峰の栽培は難しく失敗する家がほとんどで今では二軒しかのこっていない。 楠木原では戦後、羊などにも手を出しており、稲作以外の収入源を得ようとずっと試行錯誤してきたことがうかがい知れた。 7、 村のこれからについて 楠木原について調べてみて水不足と深い関わりを持ってきたことが分かった。それは圃場整備がすんだ今も水路の供給は十分ではないという。 また新入居者との価値観の違いも新たに生じてきている問題のようだ。自分たちの勝手な判断かもしれないが歴史をうかがいしることのできるこの村に近代化の波が押し寄せてくるのは何かさみしい気がした。歴史を感じることができるものや行事を絶やさないで欲しいと思った。 最後に今回のレポート作成に関して多大なる協力をしてくださった人に心から感謝の意を述べたい。 福島勝太郎様(生 s.15) 福島君生様(76歳) 岩永澄則様(66歳) |