歩いて歴史を考える 〜西有田町切口〜

1LA99275 吉丸里子

1LA99274吉田多愛子

協力者:池田徳馬さん

 

切口

しこ名一覧

田畑

小字 切口のうちに

@     善太郎

A     亀一田

B     群太郎

C     開田(ひらきだ)

D     三角畝畦(さんかくぜまち)

E     木畝畦(ううぜまち)

F     長畝畦

G     びわ畝畦

H     頭田(かしらだ)

I     志尾田(しおんだ)

J     高良田(こうらだ)

この他にも切口の中には多くのしこ名があるが、個々人の家の中だけで、使われていたしこ名が多いため、多くのしこ名が明らかになっていない。

〈しこ名について〉

・しこ名には区別するために個人の家でつけられたものと、部落で付けられたものがある。

・上のDEFGにある「畝畦(せまち)」とは1枚の田んぼのことをいう。

・水気のある田んぼ(湿田)を「ふけ田」という。

〈それぞれのしこ名についての説明〉

@     人名からとってもの

A     同上

B     同上

C     先祖が新しく開墾した田

D     三角形の形をした田

E     大きくて広い田

F     長方形の形をした田

G     びわの形をした田

・果物のびわの形と楽器のびわの形のものもあった。

H     地頭が所有していた田

I    

J     畑一帯

@     〜Jいずれも正確な位置は不明

 

〈水路〉

切口

使用している用水の名前

用水源

共有している他の村

新田川内井手(あんたごうちいで)

切口新堤

@     (溜池)

上山谷

小井手川井手(こいでんがわいで)

山谷大堤(=鎌の首の堤)

A      

上山谷

下山谷

 

神林(平)堤

かんばん(じゃーら)んつつみ

B      

 

昔の配水の慣行・約束事

昔の水争いの有無

A     について、Bについて

・土地の上の方から順に入れていく。

・水の管理をする人(=封通)を決めた。封通の任期は5年かあるいは10年間であり、1名がなる。また、部落で交代して行い、その1名を選挙で選ぶ。山谷大堤神林(平)堤では切口の人がなる。

・水の配分は田んぼにいく水路、家庭にいく生活用水である。

・昔は井戸水、湧水を使用していた。現在は水道である。

・岳の人は明治27年まで山谷大堤の負担金を支払わなければならなかった。(岳の人は山谷大堤の水を全然使わなかった)

・個人間での水争いはあったが、大きな(村どうし)水争いはなかった。

・〈個人間での水争い〉

田畑の水路が整っていないため水漏れし、土地の上方にある田にしか水が流れず、下方の田を持つ人は夜中にこっそり水を下方の田におとしに行った。田には水止めの石を置いている入口(=水口(みなくち))があり、田には約12〜15cmくらいの水位の水を貯めておく。前述した夜にこっそり水を流すことを夜水引(よみずひき)といい、水口の石をとったら水が流れるしくみになっていた。そのため下方の田に水が流れたら、上方の田がカラカラになり、けんかが起こった。ひどい状況になると夜、まむしを退治するための鎌をもって喧嘩をした。

 

〈大旱魃について〉

 1994年(平成6年)、つまり今から5年前に西有田で大旱魃があった。そのとき、切口の南西部にある古小場ダムというダムから水を引っ張ってきて水を加工した。古小場ダムは飲料水と農業用水を提供する灌漑用の大きなダムである。また、個人個人では埋めてあるパイプで川の水をポンプアップした。そのときポンプを持たないものは田が枯れてしまった。またこのときの旱魃は田に稲を植えてから起こったため、稲が枯れて3分の1の収穫であった。現在では人々は共済金をかけており、このような場合共済金が入るため、ろくに収穫できなかったとしても生活できる。佐賀にある江戸時代の日記によると昔の人は旱魃のことを大火(うーび)と言っていた。

 

・田畑と水にまつわる話について記す。

 下山谷に佐賀藩主鍋島の粷倉(年貢米を納める蔵)があり、その隣には防火用水をためた池があった。以前干ばつが下山谷に起こったとき、佐賀藩主は水田のための水よりも防火用のための水を重視し、水田を枯らしてでも上から水をひき、防火用の池に水を貯めた。

 

〈地蔵山について〉

 切口にある地蔵山の地蔵堂は江戸初期に建てられた。地蔵堂では延命地蔵をまつっており、我々は池田徳馬氏からある実話を聞いた。氏の母は地蔵堂を熱心に掃除しており、95歳でなくなった。延命地蔵にお祈りをした土地の人はいずれも90代(99歳、98歳、93歳)でなくなっており、早くても86歳でなくなっている。それゆえに延命地蔵は現在も土地の人から大切に祀られている。

 

〈切口〉

 西有田町には山谷村と大木村がある。山谷村の中に6つの部落(=小場)があり、切口村、小村、枝村はその中に含まれる。

 

〈公称地名・私称地名について〉

 郷土史家の池田氏は、地区の名前の研究において、公称地名、私称地名という名称で、2種類の地名を使い分けておられました。この2つの名称のそれぞれの意味は、

私称地名・・・個人の家や、部落において区別されるために人々に呼ばれる土地の呼び名

公称地名・・・地図上において表記されている正式な地名、昔から人々に呼ばれていた私称地名がそのまま公称地名になったものもある。

私称地名の例

公称地名の例

ハル(墾)・・・畑、山の名

「墾」とは弥生の言葉

新田川内(あんたごうち)

尻幸川内(しっさちごうち)

坂元

谷平

黒木原(くろきばる)

山谷

・また、しこ名も地名に含まれる

 

〈山、谷、橋の名について〉

・山の名前

ギョイ(御意)山・・・天皇のお言葉に関係する?もしくはギョイ山のギョイが「行」の場合、お坊さんの修行の山を意味するのか?

鎌の首山・・・「鎌」とは高いところを意味する。一番高いところにある神社から少し下ったところを「首」という。

損山・・・この山の名の由来については後述。

地蔵山・・・この山については前述

 

・谷の名前        ・橋の名前

新田川内谷         山谷大橋

飯盛川内谷         眼鏡橋

川内谷           持田橋

柳谷(やなぎんたに)     左古平橋

 

〈江戸時代の開墾について〉

 江戸時代の初期ころに、切口などの開墾、開拓がおこなわれた。切口周辺は北に国見山があり、南に切口、上山谷、下山谷と位置している。今の切口のほとんどは開墾によって切り開かれた土地であり、その開墾者は昔の切口、下山谷、上山谷の人々であった。切口の中の江戸初期に開墾された土地の中でもそのまま今の切口となっているところもあれば今の岳となっているところもある。開墾という状況の中で、切口より岳が分立し、明治27年に岳は独立した。よって今の岳の人々は江戸初期における切口周辺の開墾者の子孫であると考えられる。

 

 この開墾の歴史のために、岳の人は多くの理不尽な扱いを受けた。

 

〈切口開拓の伝説〉

 切口は開墾、開拓の村である。江戸時代、寛永終から萬治年間にかけて入植していき、材木を切って開墾していった坂(酒?)元組という人々がいた。坂元組は黒木原に入植する際、山の神に対して山入の神事を行った。山の神に野菜、果物、酒を供え、神主におはらいをしてもらい、お神酒をいただいた。そして坂元組は山の木を切って開墾し始めた。伐採した木は材木、芝生、たき木として売り、得たお金を自分たちの生活費と開墾費にあてた。次に坂元組は現在の中上組の土地を開墾し、この土地まで進むことができたので少し休もうということで中祝いした。そのため中上組と言われる。次に現在の損山組に進んだ。しかしこの土地は費用がかかったわりに材木があまりとれなかったことからこの名が付いた。次の土地は順調にいき、たきぎや芝や材木がとれたため、売上組といわれる。こうして開墾が行われていったのだが、坂元組が開墾を始めたところを切口、すなわち伐り口(きりくち)という。



戻る