西有田町上内野
1LA99229 松浦武史
1LA99248 村川智一
調査に協力してくださった方
金子 保さん(昭和11年8月生まれ)
馬場 東さん(大正11年1月生まれ)
・しこ名について
上内野のしこ名は、その土地の地主の名前にちなんで名付けるのが普通だが、村人はほとんど小作人であったために、しこ名は非常にわずかしか存在していなかったらしい。以下、確認できたしこ名とともに、それぞれの小字の地元での呼び方を記しておく。
・しこ名
チョウサクダ(長作田):
場所は小字北ノ原の北東の端に位置する。フホヅキと極楽辻にも隣接してこの水田は、地主の佐々木長作という人物の田であったため、この名がついた。
クラゾウダ(蔵造田):
場所は小字目塞の南に位置する。以前、公民館があったところだそうだ。松尾蔵造という人物の田であったことに由来する。
オサゴンタン:
小字横久保のどこかの田んぼらしいが、定かではない。タンは谷を意味するらしい。名前の由来は不明。
オミツヤシキダ(お光屋敷田):
場所は現在の住所で言うと、曲川丙3240−1に位置しており、馬場努さん宅の南にある田のことらしい。名前から、昔お光屋敷なるものがあったと推測されるが定かではない。
マツリダ(祭田):
場所は小字西ノ岳の郡兵工溜池の東に位置する。この田は昔から、祭りを行うための財源に利用していたためにこの名がついたらしい。村人が共同で耕作し、税金もかからなかったらしい。特に新嘗祭のために利用されたそうだ。なお、佐々木長作さんが寄付した祭田としての土地も小字中古場にいくつかある。
ヌゲゼマチ:
場所は小字極楽辻の西の端に位置する。前に挙げたチョウサクダと、道路を挟んで隣接している田。一度はまると、足がなかなか抜けず、履物が脱げてしまったことからついたらしい。
・小字
極楽辻:
上内野の人はフジンタニ(藤谷)、またはフージンタニ(風塵谷)と呼んでいたらしい。極楽辻は下内野の小字境川にある浄源寺から見て西の方向、すなわち西方浄土(極楽)の方向にあったため名付けられたらしい。
川良:
上内野では、ジャアラと呼んだり、コランハ、ゴンハーとも呼んでいたらしい。ちなみにジャアラとは、山間部の平地を意味する語だそうだ。
中古場:
ナッコバと読む。かつての古戦場で、下内野の深城には松浦党が陣取っていたらしい。なお、昔は上内野全体をナッコバ、下内野全体をフカシロと呼んでいたそうだ。
田原:チャーバーと呼んでいたらしい。
目塞:メッサキまたはメッサクと呼んでいたらしい。
大谷:ウータンと呼んでいたらしい
松田久保:マッタンクボと呼んでいた。地図では下内野だが、一部上内野に含まれているそうだ。
・村の水利
上内野の水源は、林野溜池だったらしい。この溜池は山中にあるため、水はかなり豊富で、地下水脈も通っているそうだ。そのため上流の方の田に多量に引水しても、下流の方で地下水が湧き出しているので、特に問題はなかったらしい。しかし万一の場合に備えて、井堰を設け、そこに責任者である封通をおいて、許可なく井堰をせき止めないようにさせていた。それでも時々、地域内で水利をめぐって争いがあり、その時は鉄砲を持ち出すなどということもあったそうだ。昭和以降は、目塞溜池の水も利用されるようになったらしい。また、内野川の水は下内野との間で共有しており、4、5人の封通が任命されていた。上内野と下内野との間で、水利をめぐって争いが起こらないように、封通と代表者たちの話し合いで解決した。だが、昼間は愛想よくしておいて夜になると水を盗む人もいたそうだ。今から5年前、1994年の全国的な米の不作の時も上内野では自分たちが食べる分には困らなかったらしい。しかし、川の水がなくなってしまったため、川底に井戸を掘った人もいたらしく、用水ポンプを購入する人も多かったそうだ。また、封通の指示で時間給水も行われた。水不足は田植え後に起こったので、犠牲田はなかったらしい。それよりも昭和42年の方がひどかったそうだ。大雨で長谷溜池の堰がきれて大水害が起こり、その後干ばつが続いて米はほとんど収穫できなかったらしい。この時はわざわざ長崎県まで米を作りに行ったそうだ。
・村の耕地
上内野の田はほとんど乾田であり、出水がある僅かなところが湿田になっているそうだ。昔、よく米が取れたところは中古場だったらしい。肥料は、堆肥を使用しており、一反当たり六俵ほどしか取れなかったそうだ。なお、山の上の方では水の温度が低いため、一度田んぼの周囲で水を回して温度を上げてから、引水していたらしい。現在では、化学肥料のおかげで収穫も増加し、西の方では良質の米が一反当たり8俵くらい東の方では質はさほど良くないが一反当たり9俵程の米がとれるようだ。「今は量より質の時代」だとおっしゃっていた。また、品種改良によって冷水に強い稲もできている。上内野は西有田町で一番米の収穫が多いらしく、後で調べたところ、耕地面積は31ヘクタールだった。
・村の発達
上内野に電気がきたのは、大正15年頃らしい。プロパンガスがきたのは、今からおよそ20年ほど前だそうだ。ガスが来る以前は薪を使っていたらしく、松が良質の薪だったらしい。松の薪は有田焼の素焼きを作る際にも使用されたそうだ。現在では、伐採と松食虫による被害のため、松の木は残っていない。
・村の生活に必要な土地
上内野では、山を分収林として有田町と共有しているところがあったらしい。これは、実際に村人が作業をする上内野が7割、有田町が3割の割合で山からの収入をそれぞれ分けていたそうだ。山ではカヤを作っており、その養分が流れてきていい田んぼができたらしい。昔は一部落に一人は山主がいたらしく、上内野には大串さんという山主がいて、かなりの山を所有していたそうだ。むらのは4、5人の山切りと呼ばれる人がいて、農閑期に薪を売っていたらしい。
・米の保存
農協ができるまでは、米は米商人が馬車で村まで直接買いに来ていたらしい。青田売りというのはなかったそうだ。米の保存は虫やねずみを避けるために二階に積んで、常にかまどの煙がかかる場所に置いていたらしい。種籾の保存は明治時代に福岡のハヤシオンリという有名な老農の指導で、村全部の種籾を井戸につけて保存していたらしい。家族で食べる分の米のことはハンミャ(飯米)と言っていた。食事における米:麦の割合は、昔は7:3だったが、戦時中のひどい時は5:5になったこともあったそうだ。兵隊は麦の割合が多かったらしい。戦後は芋も作っていた。ちなみに稗や粟は食べたことがなかったそうだ。
・村の動物
村にはだいたい各家に1匹は牛や馬がおり、3分の1が馬、3分の2が牛だったらしい。牛はおとなしい雌牛が多かったらしいが、馬は雌雄関係なかったそうだ。博労(ばくりゅう)は村に2人ほどいたらしく、口が達者だったとのことだ。また、馬車引きがいて、米や焼き物を積んで運搬することで生計をたてていたらしい。牛車もあり、焼き物を有田から伊万里に運んでいたそうだ。
・村の道
昔、隣の村に行く道は、飛び石などになっており、雨の日などは川底になってしまったらしい。塩や魚は佐世保や伊万里から、特に乾物は主に佐世保、活魚はめったになかったが伊万里から、行商人が運んできたそうだ。終戦後はヤミヤが行商人となって魚を運び、また魚がないときは反物を持ってきたり、男女の仲をとりもつ仲人の役をしたりしていたらしい。なお、福岡の方から修行に来ていた山伏たちも仲人をしていたそうだ。
・まつり
上内野では昔からの祭りを現在も続けている。その代表例が前にも記した新嘗祭である。新嘗祭は11月23日に行われており、その年の収穫を感謝するものだ。この祭りのために、祭田でとれた米が使われる。この他にも、夏、田植えが終了したあと、田祈祷を行うそうだ。これは、区長の家に神主を呼んでおはらいをしてもらい、一年の豊作を祈るものだ。
・昔の若者
テレビのなかった時代、青年のあいだでは素人芝居や踊りをすることが流行したそうだ。若衆宿もあり、青年宿とか青年会と呼ばれていた。一方女性は処女会というのに入っていたらしい。また、下内野地区のお宮に力石があり、上内野と下内野両方で使っていたそうだ。夜する仕事は男女とも縄なえだった。戦時中は米用のかますを作ることがはやったらしく、一日で10枚作ることができれば一人前とされた。昭和の初めには、夜這いもあったそうだが、夜這いに来る男がいない女性は恥ずかしいと親が自分の娘のところに来るようにと誘ったこともあったらしい。また、よそ者はことわりをいれてから村に来る決まりだったそうだ。
・その他
上内野では、人名を呼ぶときに名字は呼ばず、名前だけで呼んでいたらしい。そのため、同じ名前を持つ人が複数いると誰のことかわからなかくなる。そこで名前の前に住んでいる場所を表す言葉をつけて、人名を呼んでいたそうだ。例えば、墓下の茂さん(ハカンシタのシゲルさん)、山中の茂さん(ヤマンナカのシゲルさん)などである。ハカンシタやヤマンナカは、しこ名ではないと言われたが、他の地域ではこのようなものもしこ名になっている可能性はあるだろう。