歩いて歴史を考えるレポート(西有田町仏ノ原) レポート製作者 1AG98120 竹村 元宏 IAG98133 辻井 秀樹 話を聞かして下さった方々 岩永 郁さん 昭和29年 2月(45歳) 林 万蔵さん 昭和 3年12月(70歳) 仏ノ原 <しこ名一覧> 小字 下迎原のうちに ムカエハル コーリャージン ハジンコージ 天神原のうちに テンジンバル 山下のうちに ゾーキバル 小字のコーリヤージンとは 昔、高麗人が、そこに住んでいたため、その言葉が少し変化してそうよばれるようになった。 しこなは存在するが村人は通常小字でよんでいた。 (村の水利) 用水源:隣村(黒川)の新堤 新堤は、ため池であり黒川と共同で使用している。 新堤から水路橋を作って、自分の村までひいていた。 仏の原を流れる川からは、高低差の関係から引かなかった。 隣村の蔵宿は川をせきとめて水を引いていた。 新堤は隣村(黒川)にあるが、そこの水の管理はなぜか仏の原の人がやっている。古老の話によれば、昔仏の原に有力者がいて、その人の力で管理できるようになったということであった。 1994年から、ボンプを導入し、川からの水入れが可能となった。 水争い;今も昔も、渇水の時は文句の言い合い程度。 (村の耕地) 有田川以東:砂地のため米はあまりとれない1反あたり3〜4俵 有田川以西:よくとれる1反あたり7〜8俵特に尾上は玄武岩質で10俵とれたこともある。 戦前は、いわしや大豆のしめかす、牛や山」羊の糞が肥料として使用された。 仏の原は63軒の家があるが、今では10軒しか米を作っていない。 (村の発達) 電気:電気は戦前にすでにきていた。 古老のかたが物心ついた時にはすでにあった、正確な事は不明。 ガス:昭和36年。ガスの集積地である赤間までとりにいっていた。 普及以前は、まきが燃料であった。 鉄道:大正時代にはできていた。詳細は不明だが明治3年頃では? (村の生括に必要な土地) まきは、山からとってきた、山をもってない人は夜中にそっと盗ってきた。 村の共同の山もある。また地主からまきをもらうこともあった。 (村の若者) 昔の若者は、夕食後、青年会とよばれる皆が集まって話す場があった。 他の集落との交流もあった。 恋の手段は主に夜這いであった。結婚は親が適当にきめた結婚が多く本人の意思、同意はなかった。度重なる戦争で男の人数が少なかった。 (米の保存) 米は農協に渡す前は、商人に売り渡していた。 青田売りはおらず。 米の保存は昔はもみ蔵に保存していた。 もみがらをまわりにおき、そのまわりに杉の葉をおきネズミ対策とした。しかし、これだけほどこしてもやはりネズミに入られることはあった。毎年、毎年ネズミと人間との知恵比べが行われていた。現在ではネズミが入る隙間のない保管庫に保存するのでさすがにネズミに大切な米を食われてしまうこともなくなったそうだ。さらに現在では金をかけることができる農家では低温保管庫で品質を落とすことなく保存している。 また食事における米と麦の割合は米:麦=8:2だったそうである。 戦争終了直後は1:1の時もあった。また、いもや大根をいれて炊くこともあった。あわやひえは食したことはないとおっしやつていた。あわは直接はたべていないがあわ餅としてなら食べていたらしい。 (村の動物) 牛は各家に1匹が普通。村全体で30頭程度。はとんどの場合で雌牛であっ たらしい。雄牛は力が強すぎて、暴れるため扱いづらいそうだ。 博労:牛を売る人。実際に口がうまいひとが多くほとんど詐欺のようなものであった。 (村の道) 昔は国道202号線がなく、県道、蔵宿有田線が主な道であった。 塩・魚は伊万里から、国鉄で運ばれてきた。交通手段は昔から発達していた。 (まつり) 祭りは、八坂神社で開かれた。全員参加型。各村それぞれ1つずつあり今は保存会の人が主催で行われている。 (村のこれから) 村の悩みは、やはり高齢化が進み、後継者がいないことである。若者は皆街へ流出してしまい数が非常に少なくなってきている。それに加え子どもの数が減り15歳以下がわずか19人しかいない。 (その他) 村の一番古い墓石は,寛永2年に建てられたものである。 仏の原にある橋は昭和13年に完成、その後昭和23年の天災で一度流れ現在のものは昭和42年に再び造られたものであるそうだ。橋ができる昭和13年以前は飛び石をつかって対岸までわたっていた。 また、地図中にある待立橋は、「県道の狩立橋」と呼び、狩立橋は、「同 道の狩立橋」と呼んでいる。 (旅日記) 朝9時に校門前集合8時に起き準備は万端。出発10分前にバスに乗りこんだ。堀川バス2号車は非常に快適であった。途中休憩のパーキングエリアまで眠り続けた。一般道に入り目的地までうとうとしていた。目的地の近くにたどりついた。そこから我々の調査地である仏の原へむかう。地図上でみると大した距離ではなかった。実際歩くとやはりすぐに着いた。住宅地図に我々の訪れる家がなかったので近所できいてみた。幸いなことにすぐ目の前の家が我々の目指す家だった。玄関で呼び鈴をならす。事前に手紙をだしていたので、すぐに家にあげてもらい少し話をして、公民館に古老をよんでいただいているとのことなので共に公民館へむかった。 古老と対面した、70歳の人だった、紹介してくださった生産組合長は45歳の若いひとであった。 挨拶をして村の様々な様子をきき始める 最初はしこ名といっても理解されなかった、そして水利 発達 昔いた動物 昔の若者即ち古老が若かりし日々の思い出話をたくさん聞いた。その話のはしばしになにか地名のようなものが聞いてとれた。それが我々の調べたい「しこ 名」というものであった。改めて発音してもらい発音をカタカナで記す。非常 に話好きの古老であったのでこちらも話が聞きやすかった。14:30分頃に話を聞き終わった。その後、生産組合長の自家用車で突際のため池や橋などを順番に周り巡った。仏の原はそんなに大きな地域ではないのに加え生産組合長が車で案内してくださったので1時間程ですべてまわることができた。 この時点で15:30少し前岩永さんがおもむろにステーキハウスの前で車を停めて一言「コーヒーでも飲んでいこうか」と声をかけてくださった。非常にうれしかった、焼き肉定食をわれわれは頂いた。 食べ終わってからまたもや岩永さんが車で集合場所まで送ってくださった。 反対車線であるにも関わらず対岸まで送ってくださり非常に気持ちよくこの現地調査を終了することができた。 |