西有田町原明
1MD99050柴田憲一
1MD99089 三宅亮
聞き取りをした人:山口良治 71歳
重富為利
Q、村の戸数の変化について
A、昔は60戸くらいしかなかったが、線路が通じてからは130戸くらいに増えた。深川製磁ができてから29年くらい。
Q、村の家畜
A、機械を使って耕作する前は家畜を使っていて、12,3年前まではほぼ全農家が持っていた。持っていないところは他の農家に頼んでいた。
Q、村の水利について
A、川がないので水田には溜池の他の水を使っていた。5年前の水不足の時には、古川ダムから水がきたので特に困らなかった。長崎のほうがひどく困ったらしい。
村の溜池は昔からどんなことがあっても線を3本残すようにしている。これは緊急用のためらしい。
Q、村の耕地について
A、割合乾湿の違いは少ない。窯の辻の近くに湿田が多い。
Q、肥料などは
A、戦前は牛馬の堆肥やあぜ草などを使っていた。現在は化学肥料を主に使う。
Q、村に電気はいつ来たのか?
A、明治時代にはもう電気は来ていたようだ。44、5年前までランプを使っていた。鉄道が通じて電気がきた。
Q、村の近くの山について
A、江戸時代の金山がある。今でも坑道の跡が見られるらしい。また林は私有のものもあれば、公有のものもある。公有林については、区:町=7:3くらいらしい。これは税金対策のようである。また、「窯の辻」というのは昔、朝鮮陶工が連れてこられたところで、その墓は「いなりさんのつつみ」にある。すっかりぼろぼろになっていて、小石を積み上げただけのものだ。(窯の辻の写真あり)
Q、村の米は農協ができる前はどうしていたのか
A、戦前は地主のものとなっていた。蔵のある大きな家だった。このあたりは小作人が多かった。それ以上はわからない。
Q、家族で食べる米はなんと呼んでいるのか
A、飯米(はんみゃー)、保有米とよんでいる。
Q、田について
戦中と戦後直後は作る作物を強制的に割り当てられていた。また、とくにこの時期には麦や南瓜をよく食べた。また、米さえあればいいといった状況で、漬物、味噌、醤油(もろみ)などをおかずにして食べた。また、当時は薪で炊いたりしていた。
Q、村の祭りや行事について
A、8月1日・・・祗園祭(神社) またこの他にも、春と秋の彼岸にお参りする。各集落には一つずつ神社がある。
12月1日・・・収穫祭 11月30日・・・相撲
Q、昔の若者の暮らし
A、昼間は一日中農作業をしていた。夕食後、青年会(今の公民館)に集まって、ま草の中に寝そべって、話をした。また、将棋もしていた。
Q、他の村から遊びに来る人はいなかったのか。また遊びに行ったりはしなかったのか。
A、自転車が唯一の交通手段だったので、近くの村の人としか会えなかった。
Q、村にこれから望むこと、また村に欲しいもの
A、山を開いてぶどうを作っている。望むことといえば、駅がほしい。これは、線路が引かれたとき、当時の人々は風紀が乱れることを恐れて作らせなかったらしい。でも、村が発展するためには駅が必要だ。また、これからも村の風習、つまり行事や祭りを絶やさないでほしい。