「歩いて歴史を考える」西有田町岳地域現地調査レポート

有留壮志

・岳地域のしこ名一覧

田畑 小字岩ノ元の内  カシノキンクボ(以前かしの木があった)

   小字丸尾の内に  クワノキンクボ(以前桑の木があった)

   小字不明     ニスケダ カンスケダ(先祖の名がついた大きな田)

            ヒョウタンゼマシ(ひょうたんの形をした田)

            ナガゼマシ(細い田)マルゼマシ(丸い田)

ほか 小字長尾の内に  ソウタンビラ

   小字丸尾の内に  キタンタニ(北の4世帯)

            ミナミンタニ(南の6世帯)

   小字岩ノ元の内に オニイシ「鬼石」(池田さんが所有する池。池の岩の上に鬼が居るという伝説。)

   小字神林の内に  濡れ岩(草で覆われた池)

 

・水利について

水源地・・・伊毛原溜池、抜ノ谷溜池、大堤、唐船(とうせん)(大堤と伊毛原溜池は唐船川で繋がっている。また伊毛原溜池と抜ノ谷溜池は水路で繋がっている。抜ノ谷溜池は水量がそれほど多くないため、普段は伊毛原溜池から水を落としてもらっている。)

 

配水の約束事

基本的には川筋を優先して水を入れる。耕地整理の方は協議し手水をいれる。(協議するのは通常520日前後)ちなみに川筋は湧水、雨水で大体潤うそうである。

 

配水の管理

フウツウ(「風雨通」)と呼ばれる管理者が、伊毛原溜池と抜ノ谷溜池を管理している。(フウツウさんは責任が重い割に給料は日当にならない程のものであるそうだ。投票(2年毎)で選出されるが、続けてお願いすることも多いらしい。) 田に水が不足したときは水を流し、雨が降ったときは止める。干魃時でも尺八3本以下は火事などの緊急時のために絶対に水を残しておく。

 

干ばつ

干魃ときは、耕地整理の田畑が先に干上がる。1994年の干魃でも水口から遠いところの田畑は干上がったそうだ。

 

水源地についての補足

・伊毛原溜池・・・昭和8年頃決壊しウタゴチ川(現在の唐船川)流域が水害に襲われた。昭和23年にも同様の水害に襲われた。23年の水害以降ウタゴチ川は「唐船川」と呼ばれるようになる。また根津立(ネッタテ)の中の唐船川流域を昔のなごりで「ウタゴチ」と呼んでいる。

 

・大堤と岩ノ元溜池をつなぐ「イボイシ」の名の由来・・・大堤と岩ノ元溜池を結ぶ川の流域に、如来に出向きそのいぼを如来にこすり付けたらいぼが直る、と信じていたらしい。そこからその川は「イボイシ川」と命名されたそうだ。もっとも現在は訪れる人は少ないらしい。

 

・村の生活について

共有地

以前国有地をむらで管理していた。そのあと村側で7割買取った。

 

昔の村の収入

昔は薪炭作り、米作りなどで収入を得ていた。池田さんが子供のときは蚕も飼っていた。

・薪炭作りについて・・・昭和35年前後、木炭がまを武雄営林署が作っていた。薪炭作りは冬の出稼ぎの変わりとしての副業で作っている農家が多かった。炭は一ヶ月に二回出た。(1回で出る量は50俵ほど。木を焼くのに1週間、木を冷やすのに1週間、計2週間かかった。1=300円ほどで売れた。) 45人の共同作業であった。煙の色が見えなくなり煙突の上にマッチをかざして3秒で燃えれば、炭が焼けた証拠。そうしたら煙突を取り全部ふさぐ。

 

村の創設

1625(寛永2)、池田(切口出身)、佐藤(上山谷出身)、前田(上山谷出身)の次男・三男が移住し開墾して創設。(「岳史」より)

 

電灯はいつ来た?

電灯は大正10年ごろついた。

 

田について

田の保存のために、田のオーナー制度が若い人を中心に行われている。また、前・現町長は圃場整理に熱心。しかし田の広さは以前と変わらないそうだ。

 

村牛馬について

伊万里に行く途中の「カワイガシ」に牛を売りに行った。また逆に博労(バクリュウ)の方から村の人たちに年老いた牛馬を買い取りに、若い牛馬を買うようにいってくることもあった。

岳部落では、牛より馬が多かったそうだ。(耕作には牛より力のある馬の方が役立った) また、オスよりメスが多かった。(メスは子を産むから)

牛馬には原野の草を刈って食べさせた。わらのときは水をかけ大豆などを入れ食べさせていた。

 

町の外につながる旧道

池田さんが子供のころ、縄を結い、束ね、それを売りに旧道を通って23度売り行った。その旧道は、栗木(くりぬき) 峠を通り、佐世保に繋がっているが、昔も今も通行量はそれほど多くないそうだ。

 

川の生き物

革にはカワニナなどの小さな魚がいる。また、昔はちょうちんがいらない程多くの蛍がいたらしい。一時はあまり姿を見なくなったが、最近またよく見るようになったという。個人的には川がコンクリートで固められていたのが残念だった。

 

・当日の行動

調査のはじめからいきなり道を間違え、かなり遠回りをして50分ほどで池田さんの家に着いた。2時間近くお話を伺い、昼食をとったあと、教授と黙々と歩き伊毛原溜池を見てきた。そしてダッシュで山を下りバスの時間にちょうど間に合った。さすが教授、と感じた。もうこれ以後教授とともに行動することなどないと思うので、非常に貴重な体験になった。

 

ご協力いただいた方々

池田浜夫さん 昭和6年生まれ

前田真澄さん 

 



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