【伊万里市大坪町屋敷野(2)

歴史と異文化理解A現地調査レポート

1TE98536 田口公成

1TE98540 田中照剛

 

調査協力をしてくださった地元の人々

樋渡輝雄さん:大正5年生

片岡輝次さん:年齢不明

 

1日の行動記録

AM10:30 現地到着

11:00

樋渡さん宅に地元のことを調査

PM 0:30

昼食

1:00

史跡の見学及び地元の人への聞き取り調査

4:00

 

o屋敷野におけるインフラ整備の歴史

電気・・・昭和の初め頃

ガス・・・戦後間もなく

水道・・・20年ほど前(現在でも山の上の集落はボーリングによる簡易水道)

 

o屋敷野における水利事情

 屋敷野は傾斜のきつい山の斜面にある集落だけに、その水利事情は昔からかなり厳しいものだった。現在は集落の上の方に堤を造り、水をためるなどしているが、それでさえも真夏に雨が1週間も降らないと干上がってしまうのが現状である。その堤さえなかった時代は雨の少ない年には水の奪い合いで争いなども多く、収穫量の少ない田をその年は捨てて、収穫量の多い田のみに水を送るなどということもしていたようである。また屋敷野には伝統的な雨乞いの儀式が伝えられており、日照りが続くようなときは集落の家一件一件からワラなどの燃えやすいものを持ち寄り、城ヶ岳の頂上でそれを燃やす事によって雲を呼び、雨が降る事を祈ったという。調査に協力して下さった樋渡さんは実際にこの儀式に参加したことがあり、その効果はあったとのことである。

 

 しこ名を聞いたところ、わからないとおっしゃられたので、かわりに屋敷野における地名の由来や伝説や風習などを聞くことができましたので、変わりにのせておきます。

 

 

十三塚にまつわる伝説

 昔、屋敷野を含めた大坪町一帯にとてつもなく大きな蛇が住み着き、地元の住民は何とか退治しようとしてみたが、その蛇のうろこはあまりにも硬く、いかなる刃もうけつけはしなかった。そんなとき「源鎮西為朝」といった武士に大蛇退治を依頼することになった。為朝は弓の名手であり、大蛇にたいしても弓で挑んだが、彼の矢をもってしても、初めは大蛇のうろこを打ち抜くことはできなかった。しかしそこで為朝は、男女の愛の営みのときにツバをつけるとやりやすくなることを思いつき、矢にツバをかけ大蛇に向けていた。すると矢は大蛇を貫き、為朝は見事に大蛇を退治したのであった。このとき大蛇を十三に切り刻みほうむった場所が、現在十三塚と呼ばれる場所であり、またその時に用いた刀を洗ったとされる川が、現在大刀洗い川と呼ばれている川だとされている。

 

幸七さんについて 

昔、農民たちが不潔な肥などを運搬するときに、必ずつまずく石があった。それを、当時屋敷野の農民であった「幸七さん」と言う人が神罰と考え、その石を掘り出して塔の尾と呼ばれる場所に祭った。

以後、屋敷野の住民はその石を「幸七さん」と呼んで弁財天として祭り、現在まで毎年十二月十九日に祭りをとり行っている。

また、現在は塔の尾から岩峰の地区の上山中に移され祭られている。

 

山の神様の祭りについて

 屋敷野の地区の下森中、脇川原と呼ばれる所に大山祇神が祭られてあり、地元の人からは山の神様と呼ばれている。毎年十二月二日の祭りのときには、乳児のいる家では甘酒を飲ませて健康を祈るという風習がある。また祭りのときに「しとぎ」(志度岐?)と呼ばれるもちのようなものを食べる。この「しとぎ」は米を粉状にすりつぶし、その後少量の水を加えこね、水あめ状になったものを葉でまき、火にくべるというものであり、米の最古の調理法ではないかという説もあり文化的価値も非常に高いようである。

 

馬追(うまおう)、勢がくれ(せいがくれ)隠れが谷の伝説について

 豊臣秀吉が朝鮮出兵を行っていた時代、「はたみかわのかみ」という人物が唐津を治めていた。その「はたみかわのかみ」の妻(名前は不明)は美しく、気立ても良いと評判であり、夫婦の仲も大変に良かった。

ところがその評判を耳にした豊臣秀吉は彼女を自分のものにしようとし、妻だけを名護屋城に呼び寄せたのだった。

 当時の最高権力者である豊臣秀吉の命令とあれば断わることなどできるはずもないが、自分だけが豊臣秀吉に呼ばれている以上、何をされることもなく唐津へ戻ることなどあり得ないだろう。そう考えた妻は豊臣秀吉が自分に近づこうものなら自害しようと思い、短刀を懐に忍ばせ唐津を発った。ところが、このことが裏目に出る。名護屋城での豊臣秀吉との謁見の時に妻は不意に短刀を落としてしまう。このことを原因に唐津はお家断絶となった。そしてこの時、バラバラとなった家来の一部が屋敷野に逃げ込むこととなる。この時、彼らが逃げ込んだのが現在「隠れが谷」と呼ばれている場所であるといわれている。

 また、彼らに対する追っ手が差し向けられ、その追っ手は屋敷野の入り口で一度行軍をとめ、その後一気に攻め込もうとした。この時、行軍をやめたところが現在「勢がくれ」と呼ばれている所であると言われている。そして、いざ追っ手が谷へ攻め込もうとしたときに、あまりに狭い道と急な坂が馬の脚を完全に止めてしまった。その場所が現在「馬追」と呼ばれている所であると言われている。

 その後「隠れが谷」は山賊の住家となったらしく、その山賊と、この時逃げ込んだ武士たちとの関連性があったりするとおもしろいと思い質問してみたが、わからないということだった。

 

屋敷野の交通手段

 屋敷野は、辺りを山に囲まれているうえに関所もあったせいで、明治以前の交流はほとんどと言っていいくらい無かったそうです。山を隔てた隣の地区とは言葉も大きく違い、とりわけ仲がよいというわけでもなく、むしろどちらかと言えば悪い方だったと言います。それにまつわる逸話として、一日中道端でキセルをふかしているおじいさんがいて、そのおじいさんは実は、道を行き交う人々や村の監視をしていたが、ある日攻撃されて矢をキセルで防いだ話や、明治時代には見晴らしのいい山の上で運動会をしていたという話があるそうです。

 筑紫線が昭和の一桁に開通し交通もさかんになってくると、昭和三十七・八年頃には伊万里市の補助もでて、一日三便のバスも通るようになった。しかしどの家も自家用車をもつようになって来たので、そのバスも今では赤字路線になってしまい、伊万里市の補助でなんとか経営している状態である。また、小学校まで一里八丁あるこの村には、昔はすべて歩いていたのを、一年の最初の一ヵ月は安全なようにバスが送り迎えをしてくれていたそうです。

 

屋敷野の共同草刈り場について

 昔はどの家も一軒に一頭、牛を飼っており、屋敷野の共同草刈り場で牛に草を食べさせていたそうで、焼き畑なども行われていたそうです。しかし牛がいなくなった現在では、その場所には木が生い茂り、森林に変わってしまったそうです。森林になると土地が高くは売れなくなるし、山登りももうできなくなってしまうだろうなあと、残念そうにおっしゃっていました。



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