佐賀県伊万里市黒川町椿原

 

1EC98184 江島康裕

1EC98205 佐田真徳

 

話者:木戸正夫(75) 小田部久徳(60)

 

○一日の行動記録

 バスから降りて、約30分、山へ向かって歩いてようやくたどり着いた。椿原で私たちがまず声をかけたのは、車で通りかかったおばさんだった。「この辺で、田のことや、昔のことについて詳しい人を知りませんか。」「その家の裏の人が詳しいよ。」と言われたので、その家を訪ねてみたところ、「自分は詳しくない」とおっしゃった。そんなときに偶然現れたのが、話をしてくれた木戸正夫さんだった。「暑いけん、なかに入らんね。」私たちは冷たい麦茶をご馳走になった。30分くらい話をしていると、バイクでおじさんが何か持ってきた。「その人が区長さんやけ詳しいよ。」と木戸さんが言った。私たちが訪ねに行こうとしていた区長の小田部さんだった。「うちにこんね。」私たちはお言葉に甘えてお邪魔した。奥さんが大変気を遣ってくれて、冷たい飲み物と、メロンとみかんを出してくれた。メロンがおいしかった。2時間くらい様々なことを聞いて、小田部さん宅をあとにした。その後、詳しい情報を持った人というより、人に出会わなかった。村をぐるぐるまわったが、結局タイムオーバー。バスが来る場所にたどり着いたのは、バスの来る5分前だった。危なかった。非常に疲れたが、村の人はたいへん優しく、いい人たちばかりだった。

 

○椿原の字名一覧

西原 湯ノ下 上ノ原 ホオノ木 大谷 岩ノ上 山ノ田 宮ノ裏 ハエノ本 尾峰尾(おみねお) 

 

○区長さんや、話をしてくれた方(木戸正夫さん)の話 → 椿原のことについて

・江戸末期ごろは、戸数27、人口137人の村だったが、明治中ごろには、戸数42、人口210人、牛51頭にまでなった。これは先祖たちが開墾して畑となし、溜池を作って水田を干拓した汗と努力の賜物である。

 

・歴史が130年余りの新しい部落である。41戸のうち27戸が姓が違う。寄り集まりの村である。一番多い姓は「福川」の5つ。

 

・昔は焼畑はなかった。横野・牟田には草きり場はあった。特別なものはないが、黒川町の中では米がよく取れた。

・椿原の人の持つ土地は部落の面積の数倍も広い。

 

・村のはずれの岩の上と大谷の間に無名の大変きれいな滝があった。しかし、反対はしたが30mくらいの高さの砂防ダムができてなくなった。

 

・大きな岩に歴史を刻む人がいた。生きていたら百数歳。電気がいつ椿原にきたなどを刻

んだ。

 

・椿原の墓 → 石に名前が書いてある。(墓石ではない普通の石)昔は名もない時代だったから石がゴロゴロおいてあるだけ。 → つまり椿原は新しくできた村。歴史はそれほど長くない。

 

10月に(椿原ではないが)若宮神社で祭りがある。そのときの笛やおはやしは他の村と競っても負けなかった。椿原の笛は相当難しい。

 

・村にはお伊勢様が祭ってある。小田部さんの3代前の方(この方のときに庄屋制なくなる。) が建てて、そのことが岩に刻んである。

 

・椿原のすぐにしに拝婚橋という橋がある。(明治中ごろ)椿原としては黒川へ通ずるただ1つの主要道路。時が大正天皇御成婚の年で名づけられた。橋の近くには「ビキ石」と呼ばれる石がある。ビキとはかえるのこと。

 

・横野の庄屋だった小田部家は2代前に椿原に移転した。小田部さんの兄は椿原の庄屋さんのところへ養子に行った。小田部さんのおじさんもそこへ養子に行った。庄屋どうしでそういうことをしていたらしい。

 

・黒川の中心まで2km、役場までは3kmもあるため、昭和のはじめごろまでは、生産物の出荷は牛がやっていた。現在バスが通るのを期待している。道路を整備したい。村には県道がない。

 

・人口が減り続ける。 → 区長としては仕方ない。無理はない。

 

・小田部さんは自分の代のうちに椿原の名物になるような名木をつくりたいらしい。



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