1EC98169■ 山下真平 1EC 吉田修平 話者 森綾子さん:大正2年生まれ 野林ミヨさん:昭和14年生まれ 田中マツエさん:大正6年生まれ 山口リエコさん:昭和4年生まれ しこ名 テラダ(寺田) ソリバシ(反橋) ナガタ(永田) テンジンガラミ(天神搦) シンガエ(新ヶ枝) オクウラ(奥浦) ナンキョウダニ(南京谷) シモヤマ(下山) オオイワ(大岩) コイワ(小岩) ドンドロ(小さな溝のこと) ナカンミチ(中ん道) ハカヤマ(墓山) ○村の水利 水田の用水は、村の溜池から引いており、他の村との共有池ではないらしい。ただ何軒かで1つの溜池を共同で利用するため、ほかの池の水はとってはならないという厳しい規則があった。平成6年の大旱魃の際には打つ手が全くなく、ただ稲がかれるのを見ているほかなかったらしい。天神は川の水がくる最後の所だったらしく全く水はこなかったらしい。天神は川の水がくる最後の所だったらしく全く水はこなかったらしい。またちょうど上の田んぼには水があるのに、そこで境界がひかれているため、歯がゆい思いをしたとも語っていた。「この大干ばつが40年前におこったとしても結果は変わらなかっただろう」と村のおばあちゃんは言っていた。 ○村の耕地@ 天神地区は昔は海だったらしく、そのためしこ名に大岩・小岩という名前がついている。天満宮のあたりも島だったらしい。そのためおばあちゃんは「川に海水が混じっとるんよ」と言っていた。魚はとれたのかどうか質問したところ、「ワカメやノリといった海藻をまたアサリやシジミを小さい頃はよくとったものだ」と言っていた。 天神地区はさらに地盤が弱いため、稲作にはあまり適さないようだ。お米も他の地域と比べると悪い田んぼになるらしい。今は荒田となっているところも多いと語っていた。天神搦以外では(天神搦は高台であった)裏作は不可能だった。その代わり、この地域ではレンコン畑が多かったらしい。 ○村の耕地A 化学肥料を使う前は現在の半分ほどの4~5俵しかお米が取れなかったようである。化学肥料を使う前の当時の肥料はオーソドックスな牛馬肥をはじめ、かしき、まやんこえ(牛のいるところに敷く草)、種油を使用していたが、このころはまだ田んぼにドジョウや食べられるタニシがとれ、おばあちゃんたちは食べていたらしい。しかし、現在はザリガニは5〜10年前に姿を消し、かわりにジャンボタニシが出現し、田をあらすという弊害も出てきている。このジャンボタニシは植えたばかりの5〜6cmの稲をすぐに食べてしまうらしい。ジャンボタニシは赤い卵を産み、おばあちゃんたちは気持ち悪がり食べないらしい。ジャンボタニシの小さなものはつばき油で対処していると言っていた。 ○米の保存 刈り入れを終えた米は手コキで脱穀してむしろを織り袋状にしたカマギにつめて保存したらしい。また缶にもつめていたようだが、缶の方はカビが生えてしまうこともあったようだ。 ○田植え 天神村では、皆で周辺の家々をまわって明日はどこそこ次の日はどこそこと共同で田植えをしていたらしく、そのことを「いいい」と言っており、終わると「さぼり」といってごちそうをつくり祝った。そして現在でも天満宮で毎年7月25日に祭りを行っている。また天神村には他にも神様をかなり祭っていて祭りも多いと言っていた。 ○昔の暮らし 天神では風呂や釜を炊くのは薪ではなく、石炭を使用していたらしい。この石炭は天神の近くにある川の上流にある炭鉱から流れてくるものを拾っていたということだ。また炭鉱へ畑でできた野菜を売りに荷車に乗せていったようで、かなり売れたらしい。 また、家の作りは麦わら屋根で非常に涼しく今の瓦屋根より涼しいと言っていた。 ○その他の質問@ 「雨がかなり降ったときは、水の処理はどうしたのか?」と質問をしたところ、「なんにもしていない」と言っていた。川から水がひかなく、どうしようもない状態になってしまい、手の打ちようがなかったようである。 ○その他の質問A 田んぼで田植えをするとき、時間はどのくらいかかりましたか?という質問に対して、「6〜7人がグループになって夕方ぐらいまでには終わった」と言っていたが、人数が多い時は早く終わるらしいが、5〜6人だともっと時間がかかってしまうようだ。また横に糸をひいて、まがらないように並んで田植えをしたとも言っていた。 ○感想 話を聞いて特に驚いたのは水害や干害に対してあまりにも対処していないのではないかと思ったが、自然の力がすごすぎて、対処できなかったのではないかと思った。また、昔のことを尋ねるとおばあちゃんたちはとてもうれしそうに教えてくださり、行ってよかったと思う。 |