佐賀県伊万里市黒川町立目
1EC98023■ 衛藤朱里
1EC98050■ 久保田資子
話者:古竹繁雄さん(昭和11年生まれ)
〈一日の行動〉
現地に11時半頃着いたため、先に昼食をとることにした。少し歩いたところに大平山公園があったため、そこで昼食をとった。昼食後、手紙を出しておいた古竹繁雄さんを訪ねたが、家を間違えてしまい、まずそこでお話を聞こうとした。60歳くらいのお婆さんに聞いてみたが、「うちはよそから来ましたもんね。そこのじいさんに聞きんしゃい。」と言われた。そこで、言われた家を訪ねても、若い奥さんとお婆さんしかおらず、組合長さんの家に電話していただいた。そして組合長さんの家をたずねた。そこで1時間半強お話をうかがうことができた。組合長さんからはしこ名があまり聞けず、他の家をたずねていったが、留守だったり若い人しかいなかったりで、結局のところほとんど聞きとれなかった。
・しこ名について
小字 一ノ大平のうちに カミナリマツ(かみなり松)
オオヤマジンジャ(大山神社)
クサキリバ(草切り場)
オオヒラタメイケ(大平溜池)
小字 ニノ大平のうちに ニシ
小字 三ノ大平のうちに サキ
小字 堂手のうちに カワノウエ(川の上)
小字 佐礼のうちに シンデン(新田)
コウチデン(耕地田)
ツツミイシタメイケ(包石溜池)
小字 石倉のうちに イシクラタメイケ(石倉溜池)
サンカクタメイケ(三角溜池)
・村の水は、どこから取り入れ、出しているのか、また取り決めはあるのか?
各農家は、近くの溜池を自由に利用している。溜池を中心に水田が下流に作られているため、ポンプから水はいくらでも出る。よって、取り決めはない。
・1994年の大干ばつをどうやって乗り切ったか?30年前はどうだったか?
94年は溜池があったので大豊作であった。30年前は、井戸を掘ったが地下水では水が不足し、大不作であった。
・村の古い道はどこを通っていたのか?
古い道が、小字の境界となっている。
・どのような品物がどこからどうやってきていたのか?
食料品は自給自足。薬品は、富山の薬売りが泊まりで売りに来ていた。農機具、雨傘、げたの修理は、大川町立川から修理をしてくれる人が来ていた。
・農業以外の村の現金収入は?
出稼ぎが中心
昭和初期・・・3年くらいの期間で新潟に水路作りに行っていた。
昭和中期〜40年くらいまで・・・黒川町の原木を仕入れて、炭焼きにして商品にしていた。
昭和40年以降・・・工事現場で土方をしたり、サラリーマンが多い。
・米の保存:昔家で食べる分の米(兵糧米)はどうやって保存したのか鼠や虫の被害をどうやって防いだのか、外に売ったりする前の籾米はどうやって保存していたのか。
自給用:奥行き1m22cm、幅1m20cmの米びつの中に俵と籾がらを交互に貯蔵、1人20俵くらい。
販売用:農業倉庫に保存。
・村の耕地:米のよくとれるところ、逆にとれない田があったのか、化学肥料が入ったあとではどう変わったのか。
よくとれる田・・・佐礼、石倉、赤ハゲ
化学肥料が入ったあとはほとんど変わらなくなった。
・村の入り会い山:入り会い山はあったのか
入り会い山・・・一ノ大平
〈屋号〉
昔、おじいさんたちは二つ名前を持っていることがたびたびあった。それは役所に出した名前を忘れてしまって、自分で勝手にあとからつけたため起こった。
〈村の道について〉
昔は道路は全てあぜ道(昭和23年くらいまで)・・・牛、馬を使っていた
S23〜28、29年・・・そり(牛、馬に引かせる)
S30〜40年・・・搬車(自動農機具にリヤカーを引かせた)
S40年以降・・・自動車
〈村のこれからについて〉
古竹さんに立目のこれからについて聞いたところ、「若い人はどんどん街へ出て行っているため過疎化し、街に近い方へ移住するであろう。農業もしなくなるであろう」とのことでした。