【伊万里市東山代町滝川内・川内野】

歴史の認識 現地調査レポート

1TE97271 宮原 慶隆

1TE95701 礒部 貴志

1EC97277 山本 直人

1EC97230 清水 貴文

 

 

聞き取りした方の名前:

 平川 敏男さん(東山代町川内野;昭和91月生まれ)

 稲富 茂さん

 

村の名前

 

滝川内

ネゴロ(寝頃)、テラミチ、ニシノハラ(ニシソバル)、フルゾノ、ンバヤシキ、

ショウブンタン、ボウシツクリ(帽子つくり)、ウワボリ(上登)、ムカエ、ムラ、イワンモト、コナコウ、ヌゲ、ドギ、スサキ(瀬先)、ロクセマ(六畝間)

コウクボ(横寝)、ゴゼ、ジャーツー(大通)、ドウヤマ(堂山)、アゲンタ、

ゴンボンヒラ、ショウガンタ、チシャンキ(ドージダ)、アズキアナ(小豆穴)

マツノクボ、コダニシタ(小谷下)、カミノキド(上のキド)、ウシノハカ(牛の墓)、ヨコネ、フッタ、タダリ、アンヤシキ、ヒラバル、キョウテ、サスオ、

サカンタ(坂ノ田)、ハシラクダシ、ンバオトシ、ヤマグチ(山口)

小字古田のうちに 

フッタ

小字降ノ道のうちに

タダリ

小字市ノ川のうちに

アズキアナ(小豆穴)

小字善久のうちに

ニシノハラ(ニシソバル)、ウワボリ(上登)

ネゴロ(寝頃)

小字上古場のうちに

ゴゼ、ジャーツー

小字菅木のうちに

チシャンキ(ドージダ)

小字瀬ヶ江のうちに

キョウテ、サスオ、ムカエ、ハシラクダシ、

アンヤシキ

小字山崎古場のうちに

ゴゼ

小字浅古場のうちに

ンバオトシ、ネゴロ(寝頃)

小字岩崎のうちに

ンバオトシ、ネゴロ(寝頃)

小字岩ノ元のうちに

イワンモト

小字前田のうちに

ヒラバル、スサキ(瀬先)、ヌゲ

小字春川のうちに

ヒラバル

小字呂木のうちに

ヤマグチ(山口)、ドギ、サスオ

小字鍋倉のうちに

ゴンボンヒラ

小字揚田のうちに

アゲンタ、ウシノハカ(牛の墓)

小字佐屋のうちに

ムラ

小字碵の地のうちに

サカンタ(坂ン田)

小字山中のうちに

フルゾノ、カミノキド(上のキド)

小字小石川のうちに

コナコウ

小字西久田のうちに

コダニシタ(小谷下)

小字各北のうちに

ンバヤシキ

小字菖ヶ谷のうちに

ショウブンタン

小字石坂のうちに

ロクセマ(六畝間)

小字古川久保のうちに

コウクボ

小字長塚のうちに

ヨコネ(横寝)

小字思石のうちに

ドウヤマ(堂山)、サスオ、ハシラクダシ

小字広川のうちに

ヒロコウ

開拓地のうちに

マツノクボ

小字西田のうちに

テラミチ

小字芒田のうちに

ミョウガンタ

川内野

小字神門のうちに

神揚

小字松葉のうちに

神揚

小字栗山のうちに

神揚、ゲンタマツ

小字柳山のうちに

フル古葉、机葉、栗山、ヤシキダン(屋敷谷)

小字形人田のうちに

栗山

小字日渡のうちに

栗山、西角

小字中田代のうちに

小字山入川のうちに

西角

小字北古場のうちに

ヤシキダン(屋敷谷) 西角

小字高原のうちに

栗山、ヤシキダン(屋敷谷)

小字三本松のうちに

小字土口のうちに

小字上古場のうちに

甲斐館

小字芦宗のうちに

甲斐館

小字長谷のうちに

甲斐館

小字布落のうちに

甲斐館

小字善道のうちに

西角

 

*聞き取り者 平川敏男さん

質問:村の水はどこから、どのようにして取り入れ、まだ出しているのか?

答:水は近くの川や山寺のため池から取り入れていた。

質問:旱魃の時はどうだったのか?またそれはいつ頃か?

答:旱魃の時は日照りで米が取れないことがあった。またそれは明治初期頃である。また昭和42年ひどい干害、水害が起こった。川の堤防が途中で切れ大雪も降り、みかんの木が折れ、田んぼや橋が流された。

質問:村に電気やプロパンガスはいつきたのか?

答:電気は大正14年に、ガスは昭和40年頃入ってきた。

質問:牛や馬はいたのか?各家に何頭いたのか?またそれは雄だったのか雌だったのか?

答:昭和323月頃まで牛を飼っていた。牛は雌1頭と雄が何頭かいた。また仔牛を売って家計の足しにしていた。ばくりゅう(口がうまくて牛を見る目がある人)が地区毎にひとりはいた。その後、徐々に農耕機が入ってきた。

質問:塩、魚などはどこから来たのか?またテレビも映画もなかった時代、特に夜若者は何をしていたのか?

答:魚類はあまり食べていない。東山代に塩田があった。塩は少なかった。子供の頃はラジオを聴いて過ごしていた。祭りは風流。昔は相撲を取っていた。 20代は映画を見たり、酒の飲み会などをして過ごしていた。

質問:

答:JA以外の組合を作っていた時期もある。金持ちから金を借りて返せなかったら土地を渡す。そうやって地主は大きくなっていった。

質問:川内野について何か教えてください。

答:川内野に炭鉱があった。道には名前はなかった。

 

*聞き取り者 稲富茂さん

質問:村の耕地を教えてください。

答:辻の堂は畑だけだった。

質問:村の入り会い山はあったのか?

答:上の峠に蛇古場というところがあった。ぬるま湯を沸かして入っており、お年寄りの憩いの場だった。

質問:米はどのようにして手に入れていたのか?

答:野菜しか作っていなかったため、下の部落ぼうまで個人で売りに行っていた。野菜を売って米を買っていた。だいたいそれで米は手に入っていたが、知り合いから分けてもらうこともあった。また、自分で食べるための陸稲を少し作っていた。

質問:風呂はどうしていたのか?

答:五右衛門風呂みたいな感じの釜風呂だった。燃料はカンダンで山にあるのをもらってかついで来た。(まき)

質問:昔の若者の生活についてはどうだったのか?

答:ろうそくも使用していたが電気はあった。昼は畑に出て夜はラジオを聴いて過ごしていた。

質問:牛や馬はいたのか?雄だったのか、雌だったのか?また、ばくりゅうはいたのか?

答:2頭雌牛がいたが長くは続かなかった。ばくりゅうはこの辺にはいなかった。

質問:村の祭りはどんなものだったのか?

答:年1回、滝川内で豊作を願って風流という祭りがあった。

質問:よその村との交流はあったのか?若者たちはどんな風に恋をしたのか?

答:隣町に遊びに行った人もいた。女と知り合う機会はなかった。名前もあまり知らなかった。

 

*その他の現地の方々から得た情報

東山代の人々の良い風習

・自分の仕事に一生懸命である。

・土着心が強い。

・質素で飾らない。

・よそから来た人々を歓迎する。

・行事に関して慶弔の礼が厚い。



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