【伊万里市東山代町滝川内・川内野】 歴史の認識 現地調査レポート 1TE97271 宮原 慶隆 1TE95701 礒部 貴志 1EC97277 山本 直人 1EC97230 清水 貴文
聞き取りした方の名前: 平川 敏男さん(東山代町川内野;昭和9年1月生まれ) 稲富 茂さん
*聞き取り者 平川敏男さん 質問:村の水はどこから、どのようにして取り入れ、まだ出しているのか? 答:水は近くの川や山寺のため池から取り入れていた。 質問:旱魃の時はどうだったのか?またそれはいつ頃か? 答:旱魃の時は日照りで米が取れないことがあった。またそれは明治初期頃である。また昭和42年ひどい干害、水害が起こった。川の堤防が途中で切れ大雪も降り、みかんの木が折れ、田んぼや橋が流された。 質問:村に電気やプロパンガスはいつきたのか? 答:電気は大正14年に、ガスは昭和40年頃入ってきた。 質問:牛や馬はいたのか?各家に何頭いたのか?またそれは雄だったのか雌だったのか? 答:昭和32年3月頃まで牛を飼っていた。牛は雌1頭と雄が何頭かいた。また仔牛を売って家計の足しにしていた。ばくりゅう(口がうまくて牛を見る目がある人)が地区毎にひとりはいた。その後、徐々に農耕機が入ってきた。 質問:塩、魚などはどこから来たのか?またテレビも映画もなかった時代、特に夜若者は何をしていたのか? 答:魚類はあまり食べていない。東山代に塩田があった。塩は少なかった。子供の頃はラジオを聴いて過ごしていた。祭りは風流。昔は相撲を取っていた。 20代は映画を見たり、酒の飲み会などをして過ごしていた。 質問: 答:JA以外の組合を作っていた時期もある。金持ちから金を借りて返せなかったら土地を渡す。そうやって地主は大きくなっていった。 質問:川内野について何か教えてください。 答:川内野に炭鉱があった。道には名前はなかった。
*聞き取り者 稲富茂さん 質問:村の耕地を教えてください。 答:辻の堂は畑だけだった。 質問:村の入り会い山はあったのか? 答:上の峠に蛇古場というところがあった。ぬるま湯を沸かして入っており、お年寄りの憩いの場だった。 質問:米はどのようにして手に入れていたのか? 答:野菜しか作っていなかったため、下の部落ぼうまで個人で売りに行っていた。野菜を売って米を買っていた。だいたいそれで米は手に入っていたが、知り合いから分けてもらうこともあった。また、自分で食べるための陸稲を少し作っていた。 質問:風呂はどうしていたのか? 答:五右衛門風呂みたいな感じの釜風呂だった。燃料はカンダンで山にあるのをもらってかついで来た。(まき) 質問:昔の若者の生活についてはどうだったのか? 答:ろうそくも使用していたが電気はあった。昼は畑に出て夜はラジオを聴いて過ごしていた。 質問:牛や馬はいたのか?雄だったのか、雌だったのか?また、ばくりゅうはいたのか? 答:2頭雌牛がいたが長くは続かなかった。ばくりゅうはこの辺にはいなかった。 質問:村の祭りはどんなものだったのか? 答:年1回、滝川内で豊作を願って風流という祭りがあった。 質問:よその村との交流はあったのか?若者たちはどんな風に恋をしたのか? 答:隣町に遊びに行った人もいた。女と知り合う機会はなかった。名前もあまり知らなかった。
*その他の現地の方々から得た情報 東山代の人々の良い風習 ・自分の仕事に一生懸命である。 ・土着心が強い。 ・質素で飾らない。 ・よそから来た人々を歓迎する。 ・行事に関して慶弔の礼が厚い。 |