【伊万里市黒川町塩屋】 歩き・み・ふれる歴史学現地調査レポート 1AG98047 加治里佳子 1AG98051 加藤 恵
村の名前:伊万里市黒川町塩屋 話者:長野 貢さん(昭和10年生まれ、63歳)
プロローグ 長かった梅雨の季節も終わり、久しぶりに顔を出した太陽の日ざしはもうすでに夏を物語っていた。今年は猛暑と予想されている通り、その太陽の照りつける光と日本特有のじめじめした空気は、私達にまとわりついた。 住み慣れた都会の喧騒からふと足を伸ばし、その町に文月五日私達は降り立った。一枚の地図に期待と不安をのせて・・・。
1 道は一本だった。私達の向かうべき所は、これから始まる話をしてくれる塩屋の区長、長野貢さんの住む木造二階建ての家だった。長野さんは、伊万里市の区長会連合の会長も務める多忙な方だったが、息子さんが九州大学に通っていたこともあり、私達の突然の訪問にも関わらず「知っている限りの話をしましょう。」と、快くとりあってくださった。 昭和10年生まれで今年63歳をむかえた長野さんは、塩屋の区長を13年間も務めてきた。区長はその地区によって任期が決まっており、塩屋は3年だというが、13年という数字からも彼への信頼性の大きさがうかがえる。長野さんは言う。「50代にもっといろんなことをしたかった・・・」今は、息子夫婦と3人の孫たちに囲まれ、多忙ではあるが畑を耕したりもして、幸せな毎日を送っているそうだ。地図をはさんで私達と向き合い、長野さんは生まれ育った塩屋の歴史を語り始めた。
2 私達がバスを降りると最初に目についたのは、立川という一本の川と、それを挟む両側に広がる田んぼだった。長野さんが私達にしてくれた最初の話はその田んぼにまつわる話であり、私達が最も興味をひかれたものであった。 およそ300年前のことである。入り江に面した横土井(よこどい)という所から今の黒川中学校がある土井頭(どいがしら)という所までは、もともと海だった。それを証拠に、その田んぼには今でも貝殻が多く出てくるらしい。堤防としてこの横土井という地域をつくったのは、寺沢志摩ノ神(てらさわしまのかみ)という殿様で、新田をつくろうとしたのだった。しかし横土井は何度も何度もつくったのだが、その度に海に壊されてしまった。土井が急流で何度も流されるために、庄屋さんはその土井に人柱(ひとばしら)を立て、急流を鎮めるのを祈願することを思い立った。人柱を決める際に、庄屋さんは朝一番に橋を渡った人にしようと提案した。そしてその日の朝、橋を渡り人柱になったのは、変装した庄屋さん、その人自身であった。実際人柱が立てられた場所については語られていないが、2、3ヵ所言い伝えが残っている・・・。 人柱の霊を慰めるためにと、塩屋橋の落成を記念して、龍宮神社で毎年8月14日に「もっこおどり|という祭が開かれる。「もっこ」というのは、縄で組んで土がこぼれないようにする、土や石を運ぶもののことを言う。龍宮神社はもともと山だったと思われ、その山の土をもっこで運んで土井をつくった。 そしてその後、神社はできた。「もっこおどり」では、横土井をつくることによって新田ができ、それで利を得た塩屋、大黒川、小黒川の人々が、扇子を一本持つだけというシンプルな衣装で踊る。 龍宮神社にはとても大きな藤の本があって、最近樹齢を調べてもらったところ、320年程になるらしい。この木の樹齢と横土井が300年程前につくられたという史実から、何か関係があるのかもしれないと思われる。そして今、町ではこの藤の木を市の重要文化財に申請している。
3 横土井ができたことにより、もともと海だったところは田んぼになり、新田とよばれた。その新田は大きく3つに分けることができ、立川より北の西側の塩屋よりの田を浜開きと言い、東側の大黒川よりの田を上新田、立川より南の小黒川よりの田を裏新田と言う。浜開きは塩屋の人が利用し、そこの水利は北の方の山からの流れ水しかなかった。上新田は大黒川の人が利用し、そこの水利は立川の上流の北の支流しかなかった。裏新田は小黒川の人が利用し、立川の水利権も南にあるダムの水利権も持っていた。また、立川の南側には船頭津(ふなとうづ)とよばれる田もあり、そこの水利は立川の上流の南の支流だった。 その後、塩屋の人々が田のほとんどを持つようになった。というのも、塩屋はもともとよそから塩たきをするために来た人達が山(じょうごうだけ:今はもうない)のふもとにつくった地域であったため、昔からそこにいる大黒川・小黒川の人達に対する競争心が強かったからだ。 前でも述べたように、塩屋という地名は塩たきをしていたということでついた名だが、それも戦後までで、持っていた田んぼは奥野の人に貸して、塩屋の人は今ではサラリーマンが多い。
4 その塩たきが行われていた牧ノ地という所もまた昔は海であり、ここは国か県が埋め立てて濠と田んぼにした。そして塩田をつくる時に再びこの濠も埋め立てられた。これはいつの時代かははっきりしないが、戦時中は塩をつくっていたのでもうすでに埋め立てられていたという話である。 それから時代はめぐり高度経済成長期に入ると、工業地域をつくるため埋め立て地は拡人した。この時黒川町の沖合の七ツ島も埋め立て地にのまれてしまい、今はもうない。工業地域ができると、塩田までもが工業団地へと化してしまった。 ここで話を海へ移すとする。昔、ここ伊万里の海ではいろんな魚がとれていた。海は佐賀だけでは狭いので、長崎県と共同で漁業は行われていたが、漁業権については問題もあった。しかし、工業団地ができたために昭和45〜46年頃、浜地区は漁業権を放棄して、今は工業に従事している。浜地区とは、小黒川から漁師の人だけが集まってつくり、特に裏分という。 漁師も農家も工業団地ができたことにより、かつての自分達の職を捨て工業で働くようになった。今となっては、専業農家はほとんどいない・・・
5 横土井はかつて黒川町の中心地であり、商店街としてとても栄えていた。そこを通る県道はこの町の主要道路だったが、昭和44〜45年頃国道204号線ができてからは、その道の交通量も減少してしまった。 昔、この辺りでは伊万里までの船の定期便があり伊万里まで1時間半かかっていたが、その定期便も今ではなくなり終戦後のバスで40分、今の自動車では15分と時間短縮である。 このように県道が国道になったり、交通の便もよくなってからは、人も都市へと流れ出るようになった。2、3年前まではまだ店もあったが、かつての商店街も店を閉じ、古道もひっそりとしてしまっている。 エピローグ 語ってくれた長野さんに感謝の気持らを残して、私達は家を出た。照りつける太陽はさっきと変わらず、扉を開けた瞬間聞こえてくるものはあぶらぜみの鳴き声だけだった。私たちは「もっこおどり」が開かれるという龍宮神社へと足を運び、大きな藤の木のもとで腰を降ろした。
<感想> 加藤:今回、事前の手紙ひとつで突然の訪問をすることになり、とても不安いっぱいで調査に臨んだ。噂によれば、コンビニも公衆電話もそう簡単に見つからないような地域ということだったので、原始的な生活をイメージしてもいた。しかし実際黒川町塩屋に行ってみると、コンビニもスーパーも1件ずつだがあった。 話者の長野さんも本当に親切に、お昼にもかかわらずたくさんの話をしてくださった。やはり横土井の人柱の話が1番おもしろく神秘的だった。それに関係づけられた神社に話を聞いた後行ってみたが、石段の途中にある鳥居をくぐると、ガランとした小さな神社だった。町が栄えていた頃はきっとあの神社ももう少し威厳があったのかもしれないが、今の寂しい町並みを物語っていた。その町の歴史を探るということはその地域の人々を知ることであり、その町の将来についても考えることだなあと実感した。 そして何より今回よかったと思うのが、黒川町の人々に親切にしてもらい、普段年配の方とじっくり話すこともない私達がこの調査を通して、その機会を得ることができたことだった。今度ぜひ自分の住む町についても祖父に聞いたり町史を読んだりして調べてみたい。
加治:もともとこの授業は、課外に実際に現地へ行っていろいろ調べるということを聞いて、とてもおもしろそうだと思い、受講することに決めたものでした。そしてついにその日になると、どうしたらいいかあまり分からず手紙の返事もきていなかったので、そんな状態で本当に大丈夫だろうかととても心配でした。 でもバスの旅はやはり楽しく、不安を感じながらも期待はしていました。手紙の返事がきていないというのが1番心配で、私達は本当に伺ってもいいのだろうかと思っていましたが、いいので断りの返事を出さなかったと聞きました。私達が、息子さんも通っていたという九州大学の学生であるからだ、とのことです。 長野さんのお宅に着いたのはまだ11時前で、昼までには終わるだろうと思ったのですが、話を聞き出すと時間も忘れるほどに聴き入ってしまい、気が付けば1時を過ぎていました。そんなに長い間ずっと私達に快く話を聞かせてくれるとは、やはり長野さんの人柄の善さを感じました。 だいたいこの度の調査で最も印象を受けたことといえば、この町で出会った人々の人柄の善さでした。普段触れ合うことの少ないことだったので、良い経験ができたと思いました。そして、この「歩き・み・ふれる歴史学」を受講してよかったと思います。 |