【伊万里市南波多町大川原】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1TE98023 斎藤 里枝

1TE98041 長谷川真美

 

話者:    前田 徳治さん (大正5年生まれ)

              樋口 武俊さん (昭和12年生まれ)

              前田 喜代二さん(大正8年生まれ)

              前田 俊男さん (大正8年生まれ)

 

しこ名一覧

小字 開田のうちに       ヤンボシヤシキ

 小字 柳木谷のうちに    シモ

 小字 山の口のうちに    サリヤ、ソノダ、ヤナギノタニ、シタンカワ

 小字 大場山のうちに    ヌゲ、カゲ、アカハゲ、メヤリ、コバシンモト、ソウケダ、

ノナカ

 小字 僑住のうちに       ツルノハラ(鶴の原)

  小字 大川谷のうちに    オオコンダン

 小字 山の上のうちに    ヌゲンマエ

 小字 嶋田のうちに       ハチバンメ

 小字 前田のうちに       ホリキリ

 

以下、話者名を上から順に略してA,B,C,Dと記す。

@:山や谷(沢の名前)、山道や岩や大きな木など目印になるものにつけられた名前があるか。草切り場にはキイノがあったのか。

AB:山や谷には特に名前はなかった。大場山にあった大きな木には一里松という名前がつけられていた。

草切り場は田の尻と開田にあった。

キイノは元は共有地だったが、大正時代初期に分けられた。今は私有地となり、山林になっている。

 

A:村の名前(シュウジの名前)は?

B:大川原、そのまま。

 

B:屋号はあるか。

C:商人ではないので屋号は無い。

 

C:村の水はどこからどのようにして取り入れ、また出しているのか。そのおりにどのような取り決めがあるのか。

B:昔は井戸が主だったが、昭和3738年に全国で3ヶ所モデル集落として実験集落整備事業が行われ、大川原は820万円かけて2ヶ年計画が行われた。

その時に一心館という公民館が作られ、道路の整備、ガスの集中排管と共に生活用水として、くらしの泉と50個の水道用水が作られた。

現在は伊万里市中心の水道となっている。

 

D:水田にかかる水はどこから引水されているか。川か、ため池か。そしてなんという井堰(井樋、いかり)から取り入れるのか。

A4つのため池と徳須恵川からポンプで上げている。

井堰は大川原河川の中にいくつかある。野中にのなか井堰、嶋田にしまだ井堰、前田に前田井堰、山の口におば山井堰、徳須恵川付近にながた井堰がある。

昔はたくさんあったが基礎整備で半分ぐらいになった。

B:井堰の名前はだいたい小字の名前。

 

E:その用水はその村がすべて使うことができたのか。

B:村全体で利用した。

 

F:配分に関して特別なルールはあったのか。また特別水利に強い村があったのか。

A:特になかった。水利も平均的にどこも同じ。

 

G:ポンプ以前にはどういうふうに水を取っていたのか。

B:戦前は水車。終戦後にポンプができた。

C:昔は井戸や井堰から。戦後は田が広くなって水が大量にいるようになった。昔は5つぐらいのため池で十分だった。

 

H:過去に水争いはあったのか。あったとすればどこか。

A:特になかった。

 

I:1994年(平成6年)つまり今から4年前に、この地方では大旱魃があった。この年、どのように水を賄っていたのか。何か特別な水対策をしたのか。またこれが40年前ならどうなっていたと思うか。

A:徳須恵川から用水した。嶋田溜池、大場田溜池、七曲溜池など4つの溜池から水を引いて農業用水を賄った。国の災害対策事業が行われた。

B:生活用水はくらしの泉や伊万里市の水道事業によって賄った。

C:大川原がひどくて米ができなかった。徳須恵川の上流から水を引いた。二台の用水ポンプを作った。トラックに1000gのタンクを積んで水田と梨畑に運んだ。ぶどう畑にも運んだ。飲料水は北波多村の徳須恵から汲んだ。しかし川の上流から水を取ったので下流で困り、苦情が出たのでやめた。

これが30年前だったら手が打てなかった。稲が枯れただろう。昭和42年にポンプができ、用水ポンプで水を上げて田ん中に引いていたので、ポンプがなかったらひどかっただろう。

D:被害は大川原で一番ひどくて米ができなかった。減反政策で山間部の田んぼはだんだん減っていった。昔は稲依存だったから山にも田んぼがあったが、山間部に果樹園を作ったので、そこではそんなに被害はなかった。

 

J:時間給水(時水)はあったのか。

A:なかった。

 

K:昔この村で特に米がよく取れるところ、逆にあまり取れない田ん中があったのかどうか。場所による差があったのかどうか。

A:特にない。米の出来は自分の手入れ次第。

C:山間部など山の方では取れない。逆に平地では土地をたくさん利用できて、たくさん米を作ることができる。

昔、田んぼがあった山は、今は山林となり、そのことによって田んぼの数は減った。

 

L:それぞれ戦前で米は反当何俵か、良い田と悪い田でどれほどの差があったのか。化学肥料が入った後ではどう変わったのか。戦前には何を肥料にしていたのか。

A:化学肥料は少なめで、牛糞をたくさん使った。戦前は野草を肥料としていた。

C:昔は肥料として大豆カスを使っていた。化学肥料を使う20~30年前は5俵(=300s)だったが、終戦後は7俵取れるようになった。ただし米の生産量が増えたのは化学肥料のお陰だけではなく、農協の指導や増産奨励があったから。そのおかげで戦後、大川原は1反あたり11俵という県下一の成績を収めた。

 

M:入り会い山(村の共有の山林)はあったのか。

A:明治初期に入り会い山は個人の所有物となった。

C:昔は一部が共有、残りは私有であった。しかし、終戦後法律によって強制的に入り会い山は廃止され、売買された。その時、同時に隣組までもがなくなった。今は入り会い山は無く、持たせないようにしている。

 

N:燃料の薪はどこから取っていたのか。

B:近くの山から。

C:みんな自分の持ち山から薪を取り、貧乏な人は他の人の山の薪を買ったりした。

 

O:昔の隣の村に行く道はどれか。

A3つほどある。(注:地図参照)

C:そんな道は無い。どの道からでも行くことができる。通ってはいけない道などなかった。

 

P:昔の学校道はどれか。

C:専用道路のようなものはなかった。

 

Q:「□□ノウテ」と呼ばれる道はあったか。

C:ある。「□□ヲヌッテ」(〜を通って)と言う意味らしい。

 

R:昔、家で食べる分の米(兵糧米)はどうやって保存したのか。

B:納屋もしくは家屋の2階あたりに置いていた。

C:昔は、保有米は俵にもみのまま入れていた。玄米もたまにはあった。俵からかますに変わっていった。終戦後はブリキ管(ガンガン)に、もみすりをした玄米を入れて保存した。 現在はもみのままライスセンターに持っていく。乾燥して玄米にし、たわら(紙袋)で配給してもらいそのまま保存するか、ガンガンに入れて保存するかのどちらか。その米は約1年ほどもつ。

 

S:ネズミや虫の被害をどうやって防いだか。

B1階で炊いた火の煙が2階に登ることによって害虫は防げた。ネズミは防げていない。

D:通常よりも固く閉めて保存する。玄米の場合はより一層固く閉めなければならない。

 

㉑:外に売ったりする前の籾米はどうやって保存していたのか。

A:家の米と同様に保存。

 

㉒:50年前の村では米以外の現金収入にはどんなものがあったのか。

A:紙すき、養蚕、炭焼、わら作り。

C:炭焼、木炭、養蚕、製紙を少人数ずつやる人達がいた。出稼ぎ労働もあった。この中では製紙の仕事が一番収入が良かった。

 

㉓:どのような品物がどこからどうやって入ってきたのか。

A:製紙原料が熊本方面もしくは県内から入ってきた。

 

㉔:村の姿の変わり方、村はどうなったのか、これからどうなるのか。

B:一番大きく変わった所は、家の屋根がわらから瓦ぶきになったということ。また、かつて電灯はランプだった。補助整備と同時に道路、水路が整備された。これは昭和50~60年ぐらいのこと。橋は木造からコンクリートへと変わった。これ以上村が変わっていくことはないだろう。この10~15年で村はすっかり変わった。1つの田んぼに昔は130時間かけていたが、農業機械ができてから今は20時間で済むようになった。その時間を利用して、他の事(果樹園や酪農)に手がまわせるようになった。

C:まず昭和36年に全国3ヶ所に指定された実験集落(モデル集落)の1つとなり、下水道の整備、水洗便所の普及、釜がガスになるなどの台所の改善が行われた。(これはどの地域よりも最初に行われた。)

戦争中はどこも変わらなかった。

そして戦後になり、戦争から男の人たちが帰ってきて労働力ができたので、農業をするようになった。まず酪農(牛)、養豚、養鶏(これは少なめ)が行われるようになった。また農協政策として桃・茶を作ったが、これは失敗に終わった。みかんも自然消滅してしまったが、梨は大成功だった。ぶどうもいつしか作られるようになった。電話・水道・電気もプロジェクトの一環として引かれた。耕地整理も同時に行われた。 34年前に水道は伊万里市中心から引かれるようになった。

このように南波多町は大変素晴らしい発展を遂げたので、今年3月天皇杯を受賞することができた。

 

 

45日(日曜日)現地においての行動記録

手紙の返事を頂いた前田和規さん宅を最初に訪ねた。そこで農協組合長を37年務めておられた前田徳治さんを紹介して頂き、連れて行ってもらった。そこに居合わせた樋口武俊さんにも話を聞くことができた。

それから九州大学の人が建てたという「一心館」という公民館で昼食をとった。その後、民家を何軒か回り話を聞こうとしたがあまり詳しい人が見つからなかった。が、粘ったおかげでその近くの家で宴会が行われていて、たくさんの人が集まっていたので、そこで話を聞くことにした。そこでは村に詳しい前田喜代二さんと前田俊男さんに話を聞くことができた。2人はとても村のことをよく知っていて良い話が聞けたと思う。

ここで集めた資料がすべて手に入ったので、集合場所へ戻ることにした。

 

*事前の問題について

同じ地区を回る人たちから手渡された地図の色塗り等を済ませておいたものの、自分たちが聞き取りに行く大川原の一番メインの部分が地図の中に入っていなかった。聞き取りに行った初めのお宅でそのことを指摘され、初めてその事に気がついた。しかし、住宅地図も用いながらなんとか話を聞くことができた。もっと注意を払って地図を確認しておくべきだった。

 

*村人と接して

村の人たちはとてもよくしてくれた。はじめのお宅ではお茶とコーヒーを出してもらい、帰りに家でとれたというみかんもいただいた。次に訪れたお宅でもジュースなどをもらい、そこに居合わせた方には米を保存したりする道具などを見せてあげるからと言われ、その方の家にお邪魔して見せてもらった。

村人は自分たちの知っている限りの知識を私たちに教えてくれ、それを次の世代に伝えていって欲しいと言っていた。言葉もそれほど佐賀弁ではなかったのでコミュニケーションもうまくとれた。

 

*感想

実際村に行く前は授業のために仕方なくという感じだったが、一日中田んぼや山を見ながら歩き回り、村のお年寄りの方々のお話を聞いていくうちにとても楽しくなった。私たちの唐突な質問にも、とても親切に真剣に答えて下さって嬉しかった。自分にとって、話をするお年寄りの方と言えば祖父母ぐらいだったので、今回農村の変化を実際に体験し、見てこられた人々の貴重な話を聞くことができて大変興味深かった。

お話をお聞きした人はみんな丁寧に私たちの質問に答えて下さり、「逆に私たちも思い出す機会になり、勉強になる。」と言って下さった方もいた。昔利用していた農機具や米を保存していたガンガンなどを見せてくださった。

自分一人ではなかなかこのような話を聞きに行く事はないので、とても楽しく貴重な体験ができたと思った。  斎藤 里枝

 

現地の聞き取り調査というものを初めて体験し、身をもってその大変さを実感しました。事前の用意も大変だったけれど、当日訪れると、不慣れなこともあって、質問しても「よく覚えてないなぁ」と言われたり、相手の方に何を質問しているかを分かってもらえないこともあり大変でした。しかし実際に相手の人と交流を持ってみて、村の人々がとても親切で良くしてくれるので、私たちもしっかりやらなければという気持ちにさせられました。

なかなかこういう経験はできるものではないので、良い機会を持てたと思います。これからもこの貴重な経験を日常生活に行かしていけたらと思いました。  長谷川真美



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