佐賀県伊万里市山代町西分
1TE97596■ 梶原啓太
1TE98641■ 八尋由典
協力者:吉田弘介さん(大正13年生)
字:
榎木、京次郎、中尾、古川、四本松、永野
二場、苗代田、三本木、川渕、遠山、千間田
小郡、山川、太田、尾崎、筒次郎、寺田
五反喬、二寺巳、乙女(過去にここで地滑りがおこった)
淩谷、儀丁木、神主、登立、黒岩、柿割、
早苗田、前田、平古場、広尾、西副、善萌
通称(しこ名)について:
この西分について1番詳しい人である区長さんの吉田氏にたずねても、そのような呼び方は知らないということだった。もっと詳しい人たちはもうすでに亡くなられているといわれた。その代わりに、ここ西分では屋号のような呼び名が使われている。例えば、この話者である吉田さんの家には、「元山(もとやま)」という屋号がついているが、その周辺の田のことを「元山タンナカ(元山の田んぼ)」と呼んでいるらしい。
屋号について:
元山(もとやま)・・・もともと山だったところに家を建てたのでついた屋号。
出端(いでばた)・・・少し出っ張った地形に家を建てたのでついた屋号。
このような屋号が5軒に1軒ぐらいでついている。
地すべり災害について:
昭和26年2月16日の朝に起こった。「人形石山の地すべり」と呼ばれており、西丈久保のほうでも起こった。約50haが埋没し、22戸の家屋、50棟の建物が倒壊した。16日の深夜から再び鳴動し、17日の午前4時ころに、前日の埋没をまぬがれていた乙女部落の川口勇一さん宅ほか3戸を倒壊し、その日の午後8時まで止まった。被害は、死者が3名、被災者が129名、埋没家屋が26戸(26戸と吉田さんはおっしゃったが、おそらく25戸の誤りだと思われる)だった。
その当時、その人形石山の地すべりからの復興のことで村人の頭はいっぱいだったので、田んぼのしこ名などの古い記憶は忘れ去られてしまい、後世に残す、情報、記録は地すべりのことで精一杯だった。もっと多くのことを残せなかったことは、残念なことだと吉田さんはおっしゃっていた。
川について:
小字図に記されている河道と、現在流れている河川の位置が違うことについて尋ねてみると、「あの地すべり災害で、元流れていたかわ(佐代川(さよがわ))が埋まってしまったので、北山に「ダム」ができた。その「ダム」の水をどうにかしようということで現在流れている川を掘った」とおっしゃった。また、村の水利についてだが、ここを流れる佐代川は昔から水が豊富なため、村内か、村間などでの争いはなかったらしい。
村の過去について:
昔からここでは水田耕作が行われていたのは言うまでもないが、それに並行して、採炭、果樹栽培などをして現金収入を得ていた。この地区には、明治時代から炭塊があることがわかっていて、実際、大正元年から昭和38年くらいまで炭鉱が操業されていた。そして、炭鉱が閉山したあとはそのぼた山を整備してみかん畑をつくった。当時はみかん栽培も盛んに行われていたが、最近では安い外国輸入物が多く流入したため、減ってきた。そして、そのみかん畑を今では植林するなどして、元の山に戻しているが、林業と呼べるほどのものではないらしい。
村の現在について:
民家が全部で72戸あり、人口は約290人、そのうち42戸が農家で兼業農家のみである。農家のほとんどは農業収入よりも、所得収入の方が多い。水が豊富なため(佐代川の水による)梅雨前に田植えをして、早期米としてコシヒカリを栽培している。
村のこれから(これからの農業)について:
「農家から見れば、今の世の中はおかしい。消費者の方も日本のものを食べるように心がけるべきだ。外国のものを輸入しないで日本のものを食べればもっとよくなる。その土地、土地でできたものが一番うまい。まあ飛躍的に伸びることはないだろうが、ちょっとずつ上り坂ではあると思う。飲食で残飯が多すぎるのは、注意が必要だ。日本人自身が、米は主食だという考えをきちんともっていれば、米はすたらんだろう。日本人はその土地土地でできたものを食べるようになっていく。またそうなるだろうという希望なのかもしれない。豆腐はやっぱり日本の大豆でつくったのがうまい。」と吉田さんはおっしゃった。
西分(原田ノブエさん(大正10年)とその息子の奥さん(昭和31年))
地名の由来:
まず西分と東分という地名についてその名前に昔、争いごとがあったような気がしたので聞いてみたが、ただ単に川をはさんで西と東に分けただけであろうとのことだった。
地すべりについて:
次に話題に上ったことは地すべりのことだった。この地すべりによって川口静雄さん、山口虎蔵さん、前田国太郎さん、山口喜佐雄さん宅の4軒は西大久保から西分まで流されたということだった。だからこの4軒は西分の中ではあるが、住所は西大久保のままである。西分へ入らないかという誘いはあったらしいが断ったということだった。
いかにも人工的に並んでいる集落が山代西小の北にあったので聞いてみると、これは地すべりのあとに市が建てたもので、このへんの人は、「学校の上の住宅」とよんでいるそうだ。
農業について:
このあたりの農業は昔は専業農家が多かったそうだ。米以外にみかんを作っていたが、今は米ばかりをつくっている。専業農家と兼業農家の分かれ目は、昭和49年ごろに、この辺りに会社が3つ入ってきて、この辺の人がそこに務めるようになってから兼用農家ばかりになったということだ。
米の保存について:
この家では、俵、かます、米がんがんに入れた米を日陰に保存していた。今は米がんがんに保存してあった。またもち米は瓶に入れてあった。昔は酢も作っていた。
*米ガンガン・・・ブリキでできていてドラムかんみたいだった。
ザルについて:
この辺りではザルのことを「しょうけ」という用途は米をすくったり、もち米をあらったりするだけでなく、洗った食器などを入れておき、水切りカゴの代用にしていた。ザルはとうや金属でできているものがあった。
農業の展望について:
子供は農業を継がないと言っているが、絶やしてはいけないもの、受け継がれてきたものだから、自分の代で絶やすことは、できない。米の成長など、自然に見て、体で覚えることなど現代の子供が失いかけている大切なことを得ることができる。また家族で助け合ってできることはいいことだと思うし、家族の絆を深めるいい機会である。農業は残しておくことは大事だと思うし、なくなることはないだろう。