佐賀県伊万里市鳴石

 

1TE97260■  西村健二郎

1TE97309■  三原信介

 

・話者

力武時雄氏(84)

高峰靖雄氏(86)

その妻と弟

 

74日午前830分、学校から伊万里市へとバスで出発した。同日午前11時ころ現地へ到着しバスを降りた。まずは暑さにまいってしまわないように昼食をとり、その後、歩いて鳴石の方へ向かった。途中で現地のおじさんに道をたずねて、区長さんのお宅へたどり着いた。そこで区長さんである、力武時雄さん(84)のお話を聞くことができた。力武さんのお話は、昔この辺(鳴石)は、約40軒が漁をしていたらしくがいまでは2軒くらしか漁をやっていないということだった。力武さんは戦後に鳴石へきたらしく、あまり昔のことに詳しくないといって昔から居る方を紹介してくれるということで、鳴石にある善楽寺というお寺を紹介してくれた。マニュアルにはお寺へ行っても意味がないというようなことが書いてあったので戸惑ったが、力武さんの好意にあまえて、善楽寺まで車で送っていただいた。

善楽寺ではその日なにかの集会があったらしく、その忙しい中で合間を縫ってお話をしてくれた。

 

〈善楽寺にて〉

服部教授からいただいたプリントには、寺には行くなと指示してあったが、この村は前述のとおり、昔からの居住者は少なく、今も漁をして生計を立てている方は漁にでていておられなかったので、寺に行くしかなかった。しかし、寺の方は昔からの鳴石について詳しく80代を超える老人の方が、家族ぐるみで住んでおられたくさん鳴石のことを聞けた。

 

〈鳴石について〉

昔:そもそも鳴石は漁村で前方の伊万里湾では鯛(1本釣り、網漁)がとれ、なまこ、わかめなど解散物が豊富だった。特に鯛に至っては、「腐っても楠久(クスク)だい」(腐っても臭くない)という文句が残っている。これは鳴石を始め、楠久の地方で腐るほどの鯛がとれていたことを示す。それほどこの地方ではタイ漁が盛んだったのだ。

また、背後の山からは石炭が採れ、炭坑業も盛んだったらしい。

昭和10年代の太平洋戦争時代には日向から戦艦、747鑑がこの伊万里湾に渡船し、修理、食料補給などこの湾の使用重度は高かった。

現在:漁村部落として発展してきた魚石も漁業を放棄せざるを得なくなった。まず、伊万里湾沿岸が埋め立てられ、深底だったこの辺りは底が高くなってしまいタイが来なくなってしまった。次に、どこの村にもよくあることだが、村の高齢化で漁業を受け継ぐ者が減ってしまったのだ。とうとう昭和40年には、国からの補助金と埋立地に建設された工場への就職誘過を条件に漁村としての鳴石は消えた。

昭和34年には炭坑は閉山され、坑夫は田川などほかの炭坑地へ移された。

このあたりの農業は果樹採栽、野菜ハウスがさかんで明治時代の終わりに作られた満水になると水が溢れ出す「簡易水道」を使って農業用水としていた。

今は鳴石には100軒あまりの所帯があり、漁業を営む家は2軒あとほとんどが自営業、またとなりの楠久や埋立地にできた漁業用の工場、南方アジアから送ってくる木材を加工する合板工場など工場化が進んでしまっていた。

 

善楽寺を出てからは、農家らしい家を見つけられず、しこ名を1つも聞き出せず調査を諦めてしまった。しかし、村の人々の優しさ、自然の営みに触れ、幸せいっぱいの一日であった。これが唯一の救いである。

 



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