佐賀県伊万里市黒川町長尾

 

話者 前田至さん(昭和10年生)

    岩野進さん(昭和2年生)

1LT98079■ 銀鏡 佳

1LT98100■ 中野 由美子

 

しこ名一覧(No1)

小字 長栄のうちに クボン谷(久保谷)、ウエノツジ(上ノ辻)、ショウゴロダニ(庄五郎谷)、ハタケダ(畑田)(畑のように悪い土地なので)、ナガタンタニ(長田谷)(長さが70mほどもあるので)、ベンザシダニ(紅指谷)、オビンデン(帯田)(帯のようなので)、ヤシキ(屋敷)(昔大きな屋敷があったので)、キシノシタ(岸ノ下)、ウーガッタ(大潟)

 

小字 紅指のうちに マルヤマ(丸山)、クボヤマ(久保山)、ヤマンサコ、ナガハタケ(長畑)、テラヤシキ(寺屋敷)(昔、寺があったから)、カミサマヤシキ(神様屋敷)

 

小字 井出久保のうちに イデクボ(井出久保)、ノダ(野田)、ゼンカイ→ゼンギャ、ホトケイシ(仏石)(田に石が多かったので)

 

小字 長尾のうちに マイデン(舞殿)、イシハラ(石原)、ヘラクチタ(へらくち田)(まむし=へらくちが多いので)

 

しこ名一覧(No.2)

小字 石原のうちに  ムタ(牟田)

 

小字 大平のうちに  タニギャノ(谷ヶ野)、ウーヒラ(大平)→ウーギャラ、マエヒラ(真栄平)→ミヤブラ

 

一日の行動記録

1040分にバスを降り、11時頃に、区長である前田至さんの家に着いた。1時頃まで前田さんの話を聞き、それから前田さんの家で、お昼ご飯をご馳走になった。その後、2時頃に、前田さんに紹介していただいた、岩野進さん宅を訪ね、3時半頃まで話を聞かせてもらい、4時頃に、バス停に向かった。

 

村の名前:黒川町長尾

話者:前田至、昭和10年生まれ

   岩野進、昭和2年生まれ

 

1、 村の水利

・村の水田に使用される水は、板治川から3つの井堰によって、田に取り込まれている。井堰は上流から順に、向田橋と長尾橋の中間に位置する場所と、長尾橋、紅指橋の3つである。その水は水路によって再び川に排出されている。それぞれの井堰がどの田を受け持っているかは、地図を参考にして欲しい。水が足りないので早期栽培(4/208/20)を頼んでいる田が半分ほどある。(地図参照)

 

1994年の大旱魃の際にはやはり長尾も相当被害を受けたらしい。よってその対策として、水の足りているうちに板治川からポンプで舞殿池に水を取り込み利用するようにしたそうだ。長尾はもともと水の少ない土地らしい。大野岳や長尾の裏山に杉ばかり植林されているのもその理由の1つに挙げられるだろう。

 

・現在長尾の田の所有権は真手野の人の持つ一反を除いては全て長尾の人が持っており、その真手野の人は水利権を得るために4000円を払っている。

 

・現在長尾は水道が通って10年らしい。

 

2、 村の範囲

北・・・裏山の尾根づたいに境界がある。

東・・・板治川と奥谷池のすぐ西の尾根づたいに境界がある。

南・・・大野岳の頂上が境界である。

西・・・西側の畑川内の水田のすぐ東の谷沿いに境界がある。

 

3、 村の耕地

・湿田は昔でもほとんどないらしく、2反ほどしかなかった。

・悪田は畑田と、岸ノ下一帯だったらしい。畑田は土地が高いため、水が不足しやすく、岸ノ下一体は大雨などが降ると川の水が増水して泥が流されていたためである。

・良田はやはり川沿いの屋敷や帯田あたりだったそうだ。

・それぞれ戦前(化学肥料)が入る前は良田で反当6俵で悪田で45俵だったらしい。

・長尾は佐賀平野などと違って、赤土盤のため、もともと米ができにくい。

・化学肥料が入ってからも、化学肥料のやりすぎで稲が倒伏すれば収穫高は70%に溜まり、弓倒れと呼ばれる最高に良い出来の時で810俵らしい。

・戦前には硫酸アンモニア(硫アンと呼んでいた)を使い、次により長く強く効く尿素を使っていた。

・長尾は土地が少ないため、他の地区に田を持っている人が多いそうだ。

・入会山(前田さんや岩野さんは区有林あるいは村山と呼んでいた)はまず明治初期にその3分の1を村民で分け合い、昭和42年に農耕用の牛がいらなくなったため、そのえさである草を育てていた。もう3分の1の土地も分け合い、今では大野岳の頂上付近の前平しか残っていない。

・燃料の薪はそれぞれ自分の土地から調達していたそうだ。焼き畑はしていなかった。

*湿田、乾田、良田、悪田、村山は地図で場所を確認して欲しい。

 

4、 村の道

・昔の本道は、現在の本道と板治川のちょうど真ん中あたりを通っていたらしい。長田谷と畑田のあいだはもとは小さなあぜ道だったが、真手野に行くには近道だったため、利用していたそうだ。畑田の裏には山道があったそうだが、あまり利用するものはいなかったらしい。

・北波多の炭鉱から馬車で石炭を運んでいた。

・バスが通ったのは昭和33年のことだった。

 

5、 米の保存

56月に10俵入りの「米のかんかん」を作り、その中に保存した。

・その中にはクロールピクリン、二硫化炭素を入れて、虫対策をした。

・あまり米を売ることはなかったらしいが、精米はもみすり機以前には「とうす」でやっていたそうだ。

 

6、 村の過去

・長尾は400年前から手すき和紙をして現金収入を得てきたそうだ。農業の方が副業のようなものだったらしい。30年くらい前まで行われていたそうだが、残念ながら今やるものはいない。昭和30年くらいまではほとんどの農家が行っていたが、昭和40年までには45件にまで減ってしまった。東松浦半島でこうぞ(俗に言うかご)を仕入れ、北波多の炭鉱から石炭を、馬車で運んできて作っていたらしい。

 

・長尾は元唐津藩であったこともあり、買い出しは北波多まで10kmの道を歩いて行っていたそうだ。

 

7、 村のこれから

・やはりここでも過疎化が進んでいるらしい。ほとんどの家が兼業農家で、中には日曜など休日だけ農作業するところもあるらしい。

 

・来るお嫁さんも同じ地区の人はいないらしく、職場など別の場所で知り合って結婚する人が多いそうだ。

 

感想

しこ名というものは、きちんとした理由があって付けられたものだということがわかった。例えば、ハタケダ(畑田)というしこ名は、畑のように土地の悪い田という意味で付けられたものらしい。その土地の人々にとっては、後から機械的に決められた小字よりも昔からあり、小字よりも狭い範囲を示すしこ名の方が親しみやすいはずだ、と思っていたが、実際は、しこ名はお年寄りの間でしか通用せず、次第に忘れ去られているということを聞き、とても残念だと思った。今回話を聞かせて頂いた前田さんや岩野さんも、忘れたしこ名がいくつかあると言われていた。そのような事を考えてみても、今回の調査は非常に意味のあるものだと思う。

1LT98100■ 中野 由美子

 

長尾はとてもいいところでした。緑が多く、のどかで、時間がゆっくり流れていました。私も田舎出身なので、自分の故郷にもしこ名がいろいろあるのを知っています。私の故郷では、まだまだ子供でもしこ名が通じますが、きっと少しずつ忘れられていくのだと思うと寂しくなります。今回はいろいろな話が聞けて良かったと思います。夏帰省したときにでも自分の地元のことをいろいろ調べてみようと思います。歴史を肌で感じることは本当に大切だと思います。私は考古学にばかり目がいっていましたが、先生の授業を通して、中世史、近代史においてもフィールドワークは大変重要なことであると気づきました。前田さんや岩野さんは事前に手紙を書いていたとはいえ、初対面の私たちに熱心に話をして下さり、質問にもいろいろ答えてくださり、ごちそうまでして頂きました。本当にありがたかったです。この授業を通して、歴史を後世に残す、伝えることは大切なことだと感じました。また史学への興味もますます湧いてきました。この授業をとってとても良かった、勉強になったと思います。

                            1LT98079■ 銀鏡 佳



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