歴史と異文化理解A

調査地 松島・馬伏

話し手 前山 博 さん

    中村 いさを さん

    前山さん

調査者 1TE98048■ 福原武史

     1TE98052■ 松崎祐介

 

今回調査した松島町は以前は海であった地域の江戸時代中期ごろの埋め立てによって生み出された土地であり、松島という地名はその当時海にあった「松島」という島の名前に由来する。「松島」は現在の松嶋神社の場所にあったようだ。また、「松島」の左横には「生島(いきしま)」という島もあった。

現在はこの松島町に伊万里市の文化地域をつくるという市政にのっとり、それまで市街にあった小・中学校の移転が進み、一昔前に比べ、この地域がだいぶひらけてきた様相もうかがい知れる。

 

昔の水田の呼び名について

 調べた地域は松島と馬伏の2地域であり、この2つは共に松島町に属している。但し、馬伏という地名はその場所に付けられた正式な名称ではなく、昔からその付近をそう呼んでいたのが今に続いているものらしい。そのせいもあってか馬伏の水田には昔からのしこ名がなく、松島の水田にのみしこ名がついてあった。しこ名は以下のとおり。

(しこ名)

松島・・・松島絡み(さらに松島絡みは耕地絡みと本田という2つの呼称に分けられる。)

馬伏・・・特にあるわけではない。

 

これらのしこ名がいつから使われ、いつまでそう呼ばれていたのか詳しい資料が残っているわけではなく、具体的な時期を特定することは出来なかったが、大正以前まではそのしこ名で呼ばれていたということまでは調べることができた。

また、松島絡みについてだが、この水田が耕地絡みと本田の2つに分けられるのには理由がある。松島絡みは東西にのびた水田であり、そのほぼ中央に堤防〈この堤防は強盗田(ごうどんでい)と呼ばれた〉がはしっており、それを境に西側のみが区画整理され、この区画が耕地絡みと呼ばれたようである。従ってこの区画は新田であり、本田と比べると非常にきれいに区画されたきれいな水田となっている。逆に本田は元からあったあぜ道の周りに水田を作っていったため、耕地絡みのような区画されたきれいさはない。

 

その他の山・川・谷・橋・道路等の呼び名について

特にあるわけではなく、何の呼び名も存在していなかったようである。が、道路は大切に扱われ、年に2、3度道路の草を刈る行事もあったようだ。

 

松島・馬伏地域の慣行について

この地域の慣行として、毎年年末に水田への感謝祭りが開かれていた。感謝祭りは「まつり」と呼ばれ、その際にのみ使われる水田も用意された。この水田は「祭田(まつりだ)」と呼ばれたようである。また、この祭りはこの地域での大きな1つの祭りではなく、広範囲にわたって小さな祭りが1つ1つ行われたらしい。この祭りは今なお続き、毎年12月15日に開かれる。その他の慣行として特に目立つものは存在しておらず、この地域の人々は「まつり」を大変大切なものとして扱っていたと思われる。

 

水田への水引について

松島・馬伏の水田への水引は馬伏の真北に位置する大きな藤の尾溜池と、そのすぐ北に位置するやや小さめのベトン堤(ベトンという呼び名はコンクリートで固められたところからその名がついたらしい)が担っている。松島の水田と馬伏の水田の間には昔の堤防の名残があるのだが、当時その堤防をつくるのに未解放部落の人たちが人柱にさせられていたという事実がある。

また、水門も数多く存在しており、水神や八大竜王などが祀られている。この地域には井樋が存在しておらず、塩止め井樋(樋門)が塩遊び(淡水と海水が半分ずつ混ざったところ)に存在したのみである。藤の尾溜池の北にも水田があるのだが、ここには棚田(おそらくこの地域で最も古い)が存在しているのだが、この谷田(谷にあるからそう呼ばれる)は藤の尾溜池や堤に泥水が入らないようにするために作ったものらしい。というのも、棚田には泥水が入りにくいという性質を利用しているからである。

 

 感想

このあたりは干拓地であり、その名残が様々なところに見られたのが興味深かった。

 

 



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