【伊万里市松浦町山形真坂】

松浦町山形の真坂 現地調査レポート

1TE98492 木部 誠

1TE98489 吉瀬 仁彦

 

村の名前 :松浦町山形の真坂とその周辺の山間部

調査年月日:1998年7月5日

話者   :井手 一人さん(1928年生まれ)

 

 

【目次】

・話者について

・地名図一覧

  <それぞれの地名について

・マサカ(真坂)について

  @〜E(歴史・水利・文化など)

・調査のようす

  事前準備〜帰宅

 

 

【話者について】

 井手 一人(いで かずと)さん、1928年生まれ。今年で70歳になられる元気でしっかりした親切なおじいさん。松浦町の昔についてとても詳しい知識を持っていて、それに関連する様々な資料も僕らに見せてくれた。中でも1862年に作られたという『伊万里郷藤川内村見取絵図』(ご本人が持っていたのは複写版らしい)には昔の藤川内地方の地図と地名などが昔の人の筆跡で事細かに示されてあり、非常に僕らの興味を引きつけた。が、あまりに昔の地図であったため、ちょっと見ただけではどの図がどこを指しているものなのかよく分からなかった。

 よく話を聞いてみると井手さんは松浦町の昔についてを研究する団体の一員で、本人は主に石像文化の担当であるとおっしゃっていた。(もらった名剌には学術団体IMAと書かれてあった。何を調査・研究している団体かはよくわからないが、どうやら町の昔の姿を調べる団体らしい。)真坂では有名な物知り古老らしく、初めに訪れた家の人に「井手さんが詳しいから…」と紹介していただいた。

 

 

【地名図一覧】

小字マサカ(真坂)のうちに

ボウズンコバ(坊主古場)、サカヤツカ(境塚)、

ドウバイ(道梅)、ナガタニ(長谷)

小字オオタニ(大谷)のうちに

トウゲ(峠)、イワンモト(岩本)

小字ヒロカワ(廣川)のうちに

ハチノクボ(八ノ久保)、スゲンタニ(スゲノ谷?)

小字ウメノキ(梅ノ木)のうちに

キワダ(木和田)

※真坂では地名をしこ名という呼び方はしない。また、真坂は山の中にあるためか、田畑 と林や谷との地名の呼び分けがはっきりとなされていない。大雑把にどのあたりを〜、どのあたりを―と呼んでいるといった感じである。

 

<それぞれの地名について>

☆ボウズンコバ(坊主古場)…藤川神社の近辺の土地の呼び名。神社に近いことがその名に由来するところだろう。わりと広範囲に渡るようだが、山の中で民家はないようだ。

☆サカヤツカ(境塚)…小高い場所で、昔はここが唐津藩と蓮池藩の藩境であった。近くにはマサカ地蔵というお地蔵さんが祀られている。山の中で民家はないようだ。

☆ドウバイ(道梅)…今の真坂溜池のこと。今でも現地の人は真坂溜池のことを道梅と呼ぶ。なぜそういう呼びならわしがされているかは不明。

☆ナガタニ(長谷)…こう呼ばれる地区の北部には本当に長い谷がある。その谷のことを土地の人は長谷と呼ぶ。それがこの地名の由来であるとか。

☆トウゲ(峠)…この峠をこえると大坪町の古賀というところになる。ただ単にトウゲとも呼ぶし、マサカ峠とも呼ばれる。

☆イワンモト(岩本)…大谷の一角になぜかこう呼ばれる場所がある。なんでも昔このあたりに代官がいて、ここで弓の鍛練をしていたことから、この場所のことを「ユミンマト(弓の的)」と呼ぶようになり、それがなまって「イワンモト(岩本)」となったというのが井手さんの考えであるそうだ。実際にそこは弓の練習をするのに丁度いいくらいの広さであり、そういう言い伝えもあるようだ。

☆ハチノクボ(八ノ久保)…廣川の、ある小高い場所をこう呼ぶ。関係あるかどうかは分からなかったが、廣川の南部には熊峰と呼ばれる地区(小字)もある。

☆スゲンタニ(スゲノ谷?)…廣川と梅ノ木の境あたりにある谷の名前。実際に見てみた所、ほとんど谷はなく、林と林の間にある段差のような場所の田圃のことをこう言うようだ。

☆キワダ(木和田)…梅ノ木の南の方をこう呼ぶらしい。見る限り今はほとんど梨園になってしまっていた。

※『伊万里郷藤川内村見取図』には他にも「大岩」「大楠ノ木」「野狐谷」(漢字のみの表記であり、音は分からない)等の地名も記されてあったが、それらはもう現地の人でもどこのことであるか分からなくなっているらしい。(あるいは、その地図が真坂以外の藤川内地方の地図であることも考えられる)

 

 

 【マサカ(真坂)について】

 藤川内川の源泉近くの山村で、豊富な湧き水がある。古くは唐津藩と蓮池藩との藩境の集落であった。また、昔は今岳神社の近くに松浦党の砦があって代官がいた。川沿いと山間部(谷)中心に田畑が作られていたが、現在ではポンプを使い湧き水を利用した微高地での梨の栽培も盛んである。ここには現在10軒ほどしか民家がなく、区長もいない。行政上では藤川内地区に属していて、藤川内の区長さんがこの地区も担当しているらしい。山村であるが山の傾斜が若干急であるため、古くから焼き畑は行われておらずキイノの伝承はなかった。しかし木の生えていない原野はすべて古くから草切り場として利用されており、今でも二年ごとに区の管轄で野焼きが大々的に行われる。今では「梅ノ木」「廣川」「大谷」「真坂」の四つの小字とその付近をまとめて真坂と呼んでいるようだが、昔実際に真坂と呼ばれていたのは北部の一角だけである。真坂と呼ばれていた所は小高い尾根になっており、文久2年には「馬坂」、その後には「間坂」と表記されていた時期もあったようだ。

 

@村の歴史

 山間部を川沿いに切り開いて広がった村落である。古くは唐津藩(北部)と蓮池藩(武雄方面)の藩境に位置する貧しい百姓村であった。南部の今岳の砦には松浦党の代官がいて村を支配していた。昔はあまり米がとれず、良くても一反で5俵というのがほとんどであったため、多く小作農の村人は大変苦労をしたらしい。現在では豊富な湧き水を利用しての梨の栽培が盛んである。

 

A梨の栽培について

 20年程前から国営事業として梨の栽培が始まった。(今は民間に払い下げられているようだ)当初は「東洋一の梨」の産地であったらしい。初めは梨1つ1つを紙で個装して虫害を防いでいたが、今では個装せず、夜に忌避灯を照らして虫を防ぐそうだ。(個装するよりもその方が、光合成ができて梨も甘くなるとのこと)

 

B穀物の保存法

 俵や大きな瓶を使って各家で保存していた。天井の梁から縄で俵や袋を吊るして、鼠を防いだという話もあった。

 

C神社(氏神)などについて

 南部の今岳神社、北部の藤川神社があるが、もともと後者のほうは前者の分社としてできたらしい。どちらも伊万里神社の宮司さんが管轄する神社である。また、昔、藩境だったところどころには地蔵や道祖神(サエノカミ)が今もなお祀られている。

 なお、「サエノカミ」という読み習わしには「妻の神」「幸の神]「避疫の神」「塞の神」という意味があるのだそうだ。

 

D村の水利慣行について

 基本的には溜め池から下りてくる水を順番に分配してゆくという方針をとっている。また、各部落専属の水系が予め決まっており、良い水系を利用できる所は他の所よりも多くの区費なり年貢なりを収めなければいけないというルールが決められていた。今はポンプを利用すれば水のことはどうにでもなるようだが、割に合わないとか、秩序が乱れるとかの理由から、今でもなるべく昔のままの水利慣行が保たれている。もっとも、真坂は溜め池と豊富な湧き水のおかげで水不足に苦しむことは今までほとんどなかったそうだ。4年前の干ばつの時はさすがに溜め池が干上がったそうだが、それでも犠牲田がでることはなかった。(もっとも近頃では米の生産調整のため米を作りすぎることは少利益だから、米のことはそう深刻な問題にならず、むしろ梨のほうが大変だったらしい。)とにかく昔から真坂の村において水利に関する大きな争いごとはがあったという話はないそうだ。(特に水争いの多いところとして桃川の向こうの「馬の頭」という所が話にのぼった。そう入り込んで詳しい話はしなかったが、そこはサイホン式の水利を使っている所らしい。)

 

E村の文化について

  (井手さんが語ってくれたこと等をまとめた)

☆野焼き

 二年ごとに区の管轄で行われる行事。原野を焼いて害虫駆除・日向作り・肥料作りをする。また、刈り取った草は牛馬の飼料や敷草としても利用される。栗以外の木の芽は特にカシキと呼ばれ、また焼け残りの木はヤケジアーと呼ばれる(意味は私にはよくわからない)。この野焼きが終わると村の人達は酒盛りをし、焼いた原野の後の2年間の所有権を競り合う(魚市場、あるいはバナナの叩き売りのような感じで)。焼いた原野からはゼンマイや芹等の山菜も生えてくる。

☆鼻外し

 15歳になると村の青年の組合のようなものに入ることができた。一年目は小若者、二年目から一人前として認められるようになるのだが、その二年目になる人達を祝う行事がこの鼻外しとよばれる行事である。一種の成人式で、若者風な形式にのっとって酒盛りをした。

☆夜這い(ヨビャー)

 恋愛の一つのカタチである(あった)。一説によると、これには若い男が深夜徘徊することが余所者の村への侵入を防いでいるという村の自警システム的意味もあったらしい。

☆モヤーブロ

 川沿いの共同風呂のことをこう呼んだ。当時は社交の場として「裸の鹿鳴館」とも呼ばれたとか。昭和30年代まであったらしいが、今はもうない。

☆釜蓋かぶせ

 結婚の儀式のようなもの。村の若者が花嫁に釜蓋をかぶせると、その娘は長生さして末永く幸せに暮らせると言われている。

☆ウマニワ

 馬の健康診断。牛馬耕の頃、農作業前に村の馬を広場に集めて健康診断をやった。それをウマニワと呼んだ。

 

 

【調査の様子】

 7月5日、晴れ。今日は大学の授業の一環として、佐賀県に行き佐賀の古い水田に付されている通称名称や昔からの水利慣行、文化についてなどを調べに行く。クラスは幾つかのグループに別れてそれぞれの調査担当地を割り当てられていたから、事前にその区域の区長さんに連絡をとるなりして準備することになっていたのだが、僕等が行くことになっている真坂という所には区長さんにあたる人がおらず、また住宅地図で調べたところ民家は十数軒しかないことが分かった。さらにはあるはずの5000分の1地形図さえ(どうやら発行されてなかったようで)ついには手に入らなかった。(天神の紀伊国屋書店に行って2万5千分の1図も探したが、既に売り切れたか、在庫がなかったか、まあなんにせよそれも見つけることができなかった。)どうなることやらと先々の調査を不安に思っていたが、先生が1万分の1図をお持ちだったので、1万分の1図のコピーとその拡大コピー(縮尺を5000分の1に拡大した)だけは準備することができた。

 8時15分に学校に集合し、みんな貸切りバスに乗り込む。僕は現地調査マニュアルと先に述べた地図と自分で作った昼食を持って、昨日はなぜか1時間しか寝ていないという寝不足の相方の隣に席をとった。大きなバスが2台もあったのにもかかわらず調査団が全員乗り込むとそれらはすぐ満席になってしまった。おさかな村というところでの10分の途中休憩をはさんで満員バスに揺られること約2時間、僕等は最初の目的地に到着した。眠りこけていた調査団員たちは各自の調査地域の近辺に次々と降ろされていった。その多くは初めてやって来た佐賀県にとまどいながら、地図を見てそれぞれの担当地区へと足を向ける。僕たち2人は近所の人に道を尋ねようと近くの民家を訪ねた。

 佐賀の景色は何だかのんびりしていて、時間の経過が急にゆっくりになっているような感じがした。そこにあるのは山と林と田んぼと道路だけ。聞こえてくるのは時々田舎道を走って行く車の音と蝉の鳴く声と、田んぼの畦でカエルが跳ねる「ポチャン」という音だけ。絵に書いたような田舎の風景には街のような忙しさがない。道を訪ねるために入った家では、おばさんがポリバケツいっぱいの茄子を座っている椅子の前においてその皮をむいていた。(それがなんのためであるかは謎であるが、おそらくなんらかの料理にその茄子を使うのか、もしくはむいた皮を染料かなにかに利用するためだろうと思う)

 話しかけると、おばさんは作業している手を止めて快くそこから真坂への道を地図の上に示してくれた。そして歩いて行くならとても時間がかかるからと、なんと親切なことに僕等をそこまで車で送ってくれると言ってくれた。僕等は「いいのかなぁ」なんて思いつつ、おばさんの親切のお世話になることになった。

 おばさんと僕等をのせたトラクターは田んぼの畦道を通り梨園の中に入っていった。僕達は「どちらの道のほうが近い」とか「どっからなにしに来たか」とか、そんなことを車の中で話した。そして、しばらくすると車は真坂に着いた。真坂には十数軒しか民家がなかったが、おばさんはその中でも真坂について詳しそうな人を紹介してくれ、僕等を車から降ろした。僕等はおばさんにたくさんお礼を言って、さっそく紹介された人の家を訪れることにした。

 先にも述べたが、真坂には区長がいない。だから僕等は他の調査チームがやるように、事前の手紙等の連絡を取っていなかった。だから忙しい時は村の人達に聞き取りに協力してもらえないことがあるかもしれないと危惧していたのだが、そこの家の人もまたとても親切で、僕等の話をよく聞いてくれた。そしてそれなら自分よりも詳しい人がいるから、と言って井手さんのことを紹介してくれて、その家まで僕等を案内してくれた。

 井手さんは家で畑仕事をしていた。内心心細かったが、聞き取りを始めると井手さんもだんだんのってきて、畑の横から玄関に場所を移し、いろんな資料を持ち出して延々と真坂の情報を語ってくれた。話しと質問はお昼まで続き、僕等はあろうことかお昼まで御馳走になってしまった。そうこうして僕等は井手さんが調べた資料やノートに一通り目を通し、井手さんの話とあわせて関係のある箇所を自分のノートと地図におさめることができた。

 全ての聞き取り調査は2時頃に終わった。初めに訪れた家の人に会って調査がうまくいった旨を報告すると、そこの人は冷たい飲み物を僕等に出してくれた。そして自分もその方向に用事があるからと言って帰り道を車で送ってくれさえした。これが福岡の街だったら怖いくらいと思うほど佐賀の皆さんはとても親切な人達ばかりで戸惑わずにはおれなかったが、みなさんの雰囲気とか笑顔がとても温かく、僕等はとても有り難く、うれしく思った。

 帰りのバスがやってくるまでまだだいぶ時間があったので、僕等は資料を整理するついでにと伊万里ラーメンを食べに行き、その後で近くの無人駅で電車の時間と運賃などを一応確認した。連絡さえすればバス以外の交通機関を使って帰っても良いということになっていたが、それには3000円近い運賃がかかるとわかって僕等は電車で帰ることを全く断念し、普通にバスを待って帰ることにした。

 バスを待つ間、僕は今日一日の小旅行について振り返って考えてみた。田んぼの近くの池の端の木陰はとても涼しい。今日一日は楽しかった。いろんな人が親切にしてくれた。僕は都会も好きだが、こんな田園の広がる田舎もいいものだなと思った。この授業とは直接関係ないかもしれないが、これから僕たちが作ってゆく社会環境のあり方というものについて、また人と人のあり方についても考えさせられる所が多い一日であったように思う。

・・以上でこのレポートを終わります。



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