現地調査レポート 調査先:佐賀県伊万里市黒川町真手野 小旗実雄さん 大正12年生まれ 区長:山口登さん 調査者:1LT98054■ 草場友美 1LT98060■ 熊澤麻耶 ・地図におとしたしこ名、私称地名 真手野では、田畑に関するしこ名が少なく、田畑は小字に近い名で呼んでいたらしい。 そのかわり、家や住宅地、ある一部の地域についてのしこ名が多かった。 小字・トヤ(戸屋)のうちに 山・・・トヨミナサマ(豊宮様):山、または山の頂上付近をさす。豊宮様を祀る祠があることから。 地域名・・・ウウタニ(大谷)、ササヤマ(笹山)、トヤンタニ(戸屋の谷)、シイノキヤマ(椎の木山) 小字・タカダケ(高丈)のうち 山・・・マゴエモン、またはマゴエンドン:由来はよく分からないが、話者の小旗さん曰 く、「よう分からんけど、人の名前やろねえ」 地域名・・・ハチノクボ(八ノ久保)、シレゴダニ、コウヤ(高野) 小字・ヤナギノウチ(柳の内)のうちに 田畑・・・ヤナギノウチ(柳の内) 地域名・・・ウウドヤ(大戸屋)、コドヤ(小戸屋)、カクラ 溜池・・・ヤナギノウチノタメ(柳の内のため)=柳内池 小字・コバル(小原)のうちに 地域名・・・ミチシ:この地方は大体、コバルと呼んでいたそうだ。 小字・マツノモト(松の元)のうちに 田畑・・・マツノモト(松の元) 小字・ウト(宇登)のうちに 田畑・・・ウト(宇登) 小字・ダーミチ(駄道)のうちに:この地方は大体ダーミチと呼んでいたそうだ。名前の由来 は、昭和の初めまで、ここで、病死した牛馬の死体を焼いていたことからくるらしい。 小字・フルコノ(古河野)のうちに:この地方もフルコノとしか呼んでいなかったそうだ。 小字・ミヤガハル(宮ケ原)のうちに:この地方一帯の田をミヤガハルと呼んでいたそうだ。 小字・イデクボ(井出久保)のうちに 住宅地名・・・ニシ(西)、ナカ(中)、ヒガシ(東):西、中、東は相対的につけたと思われる。 ミズノガタ(水野方)、デミセ(出店) 地域名・・・カミノガタ、またはカミノホウ(上野方):水野方と相対的につけられたようだ。 山・・・ビザイテン(弁財天) その他・・・セデケ:良田のことであるが、水野方東に位置している。 ポンプ:水野橋西にあるポンプ 岸岳末孫の墓:水野方南にある。やはりずっと畏怖されているらしい。 小字・トヤバル(戸屋原)のうちに 田畑・・・トヤガタ(戸屋方) 小字・ハル(原)のうちに:この地方は、大体、ハルと呼ばれていたそうだ。 その他・・・セデケ:井手窪にあったのと同じく、良田のこと。板治川と県道にはさまれたいくつかの田。 ハチリュウサマ(八竜様):県道ができる前、八竜様という水の神様を祭っていたのだが、県道建設の折に、現在は椎立川の豊殻神社に移されている。 小字・キノシタ(木の下)のうちに:この地域一帯の田をキンシタと呼んでいたそうだ。 その他・・・水路:木の下の田付近に水の供給源がないため、椎立川のためから水路を使って水を引いている。あまり高低差がないのに、しっかり水が流れてくる実に見事な水路だと、小旗さんも褒めていらっしゃった。 小字・スガムタ(菅牟田)のうちに 住宅地名・・・ヒノクチ(火の口)、ハシノクチ(橋の口):この地方一帯の田をスガムタと呼んでいたそうだ。 小字・シイタチゴウ(椎立川)のうちに ため池・・・シイタチゴウノタメ(椎立川のため):=奥谷池。この池には、豊殻神社西のポンプから水を引いているそうだ。 シイタチゴウノウエンタメ(椎立川の上のため) オクノタニ(奥の谷) 地域名・・・オクノタニ(奥の谷) 小字・コウラ(川原)のうちに ため池・・・テランタメ(寺のため):華蔵寺近くのため池 小字・タケノジ(竹の地)のうちに ため池・・・タケノジダメ(竹の地だめ):この地方の田はタケノジと呼んでいたそうだ。 小字・タルキ(樽木)のうちに:この地方の田はタルキと呼んでいたそうだ大砂子の田と共に、良質の米が取れる田であったらしい。 小字・ウウサゴ(大砂子)のうちに:この地方の田はウウサゴと呼んでいたそうです。 *地図中の書き込みの色分け 黒・・・小字、 赤・・・しこ名、私称地名、 青・・・ため池、水路、ポンプ 茶・・・山、 ピンク・・・村の範囲、 緑・・・その他 (地図は佐賀県立図書館所蔵) 村の水利 ○明治の末期頃、年ごとに水飢饉にあい、真手野部落では板治川の中流の水野川との合流地点(通称落合川)に井堰を構築されたが、顆粒の隣村南波多村重橋(じゅうばし)の区民から異議が出て、再三にわたって紛争を起した。そこで、明治44年7月25日、西松浦郡区役所において黒川村長及び南波多尊重が立会の上、真手野区長の岸田哲蔵、重橋口調の田中吾助とのあいだにおいて、引水期日あるいは時間など、詳細にわたって協定書を作成し、調印が行われた。これによって一応の紛争の解決かと思われたが、その協定もなかなか忠実に守られることなくその後も年々紛争が絶え間なく繰り返された。 そこで、ことは重大となる恐れもあり、西部落の有志が互いに図りこれを解決しようと、当時の西松浦郡長甲斐田毅氏に一任することとなり、決定書が作成された。その後、水野上流字高丈谷(通称しれごん谷)に両部落の共同作業を以て新溜池(しんためいけ)を構築する事となり、大正4年5月に完成して無事解決を見た。 *溜池は真手野の所有。溜池を作った土地の所有者に対して「よまい」と呼ばれる、米の代わりのお金を払う。金額はその年の米の値段を基準にして決定される。これは現在でも行われている。 ○ 水野橋近くにあるポンプは10年ほど前に作られた。個人でポンプを使って水をあげると南波多町重橋の人々から文句を言われた。 ・ 水田に入れる水の管理(どの田にどれくらい水を入れるか、etc)は「水番(みずばん)」の人に任せきりだそうだ。この水番は毎年3月20日(現在は3月20日頃の日曜日)に行われる初会議で「札入(ふだいれ)=投票」によって決められる。自分の水田だけ水を入れるなどという不公平なことをしない人を選ぶ。よって1年で役を終える人もいれば5年以上続ける人もいる。水番は6月〜10月頃までの農繁期が働きどきで、報酬は15万円(「水番金」と呼ばれる)。 ○1994年(平成6年)の旱魃のときは、真手野では影響はなかった。あの干魃が圃場整備前に起こっていたら、溜池も川も枯れてしまいどうすることもできなかったであろう。昭和18年の水害(28水、にじゅうはっすい)では真手野全体が水に浸かった。 村の耕地 ○よく米がとれるところでは、1反(10アール)当たり10俵(1俵=60kg)程度とれた。米が良くとれることを「せでけする」と言う。悪田では1反当たり3俵から4俵しかとれなかった。標準では7俵から8俵。 樽木、大砂子(ううさこ)地区では、粘土質の土であるために、少量(6俵半から7俵)ではあるがとてもおいしい良質の米がとれる。 ○戦前は野焼き(水田が日陰にならないように山を焼いた。また、水田が日陰になるような木も植えてはならなかった)をして「かしき」と呼ばれる肥料を作った。加えて牛馬の堆肥も用いられた。昔は野焼きをするにも誰の許可もいらなかったが現在は消防署に届けて許可を得なければならない。 ○ 6月から10月は米の時期だが、それ以外に、湿田では菜種を、乾田では麦を作っていた。菜種や麦は10月から11月に田植え、5月に収穫。 ○化学肥料が導入されたおかげで、良田と悪田の差はほとんどなくなった。 ○村共有の山林には木を植えた。昔は橋も木製だったため10年に1回くらい共有の山から木を切り出して橋を作った。 ・県行造林(8.12ha) 苗木代は県が負担する。1年に1回、県の補助金を受けて部落の人々が下刈りをする。この下刈りには一家から1人が必ず出なければならず、出なければ1日の日当分の罰金を払った。また、管理人が見回って枝うちや間伐の必要性や倒木の有無などを調べた。この仕事は以前は部落の人々が行ったが、現在は伊万里市の森林組合が行っている。よって県からの補助金は直接森林組合に払われる。 ○燃料としての薪は自分で自分の家の山からとってきていた。 村の道 村道(通称:作場道)は、リヤカー1台がやっと通るくらいの幅しかなかった。 市道(通称:里道)は学校道も兼ねていた。 これらの道では、材木、畑でとれた作物・草・牛の飼料・かしきなどが、米3俵が乗る程度の大きさのそり(木製)、または鞍に乗せられて牛や馬を使って運ばれた。 *リヤカーは終戦後に使用され始めた。 米の保存 家で食べる分の米の保存法としては、4斗入りの俵にもみを入れ、2階の屋根の上(ねずみが多い)に置いたり、「もみでこ(もみを入れる箱)」に入れて、その都度食べる分だけ唐臼(とうす)で精米をした。また、「からうす」と呼ばれる小屋(真手野には4つくらいあった)で交代で白米にした。ねずみや虫の被害を防ぐために、米を俵にいれさらにもみでこに入れて、もみがらをつめておいた。この方法はねずみや虫除けには効果的だが、出し入れが大変だという短所もあった。 50年前の主食だが、米:麦=7:3の割合で、ひえは食べなかった。しかし米には、あわやいもを入れたり、お粥にしたりして量を増やした。 また、塩の配給がなかったので、現在の名村造船所付近の海岸で塩を作った。この塩を買うために福岡方面からも客が来ていた。みそやしょうゆは自家製だった。 村の過去 米以外の現金収入としていたものを次に挙げる。 ・紙すき(和紙)・・・農閑期の夏と冬に作った。冬作るほうが材料ののりに粘りがあるため上質のものができた。この和紙は「唐津半紙」や障子紙として使われ、買い手がたくさん来た。わざわざ売りに行かなくても良かったので良い収入源だった。男性が材料を作り、女性が紙すきという役割分担がでてきていた。昭和30年頃まで続いた。 *唐津には「女小屋」が多かった。そこで働く女性たちが、唐津半紙は柔らかく音がしないため、お客さんに失礼にならないからといって現在言うところのトイレットペーパーとして使っていたそうだ。 ・養蚕 ・タバコ・・・10年間くらい作った。 ・西瓜・・・「伊万里西瓜」の名称で長崎・福岡・熊本まで共同出荷した。 現在は「ヤブキタ」という品種のお茶生産が主流。ヤブキタは作るのが容易でよくできる。 村に電気が来たのは大正12年。プロパンは終戦後の昭和40年すぎに来た。プロパンよりも先にテレビが東京オリンピック頃に普及。テレビのない家庭の人々は東黒川小学校(当時。今は黒川小学校に統合)に見に行った。 村のこれから 村の変化として次のようなものが挙げられる。 圃場整備 県道が通るなど道が立派になった。 家が建て替わった。 太陽熱やプロパンなどを燃料にするようになった。 水道が来た。(有田川の水を使用) 有線(ケーブルTV)が入った。 自家用車が一家に3、4台ある(これは、家族の一人一人が別の仕事場に行くから) 農外収入の増加 農機具の大型化・機械化 学校の統廃合〈尋常高等小学校の1年間の授業料は1日1円50銭で、容易に払える金額ではなかった〉 *概して、生活水準が大幅に向上したことがうかがえる。 調査こぼれ話 ○真手野公民館には観音様が祭ってあるが、これは華蔵寺からこの観音様を盗んでいた泥棒が、公民館前の堂川橋を渡ろうとしたとき、観音様が非常に重たくなったので捨てたものらしい。 ○豊宮様には白蛇が住んでいるらしい。 ○豊穀神社の杉の大木は数年前の台風で倒れてしまった。 現地調査を終えて 草場の父と区長さんが知り合いだったため事前に連絡しておいてもらったところ、区長さんが自分の建設会社の一室にお年寄りを呼んでいて下さった。調査は冷房の効いた部屋で大変スムーズに進んだ。西瓜も出していただいた。すごくおいしかった。話をうかがったおじいさんが「今の若い人は隣の地区との山の境界も知らなければ習おうともしない」とおっしゃっていたのが大変印象に残った。区長さんからは黒川町史の本をもらい、おじいさんは事前に圃場整備について調べておいてくださったりして大変助かった。おじいさん達にはぜひ長生きしてもらいたい。 黒川町東部圃場整備事業概要 着工 昭和50年12月11日 俊工 昭和55年3月31日 従前地面積 畑川内23.2ha 長尾14.3ha 真手野21.9ha 計59.4ha 整地後面積 畑川内20.4ha 長尾12.9ha 真手野19.9ha 公道2.9ha 水路3.3ha 計59.4ha 総事業費 34.190万円 反当工費 645.100円 補助費 354.800円 自己負担 290.300円 |