佐賀県伊万里市黒川町小黒川 1AG98023■ 岩永圭子 話者:黒川紀夫さん 〈黒川町小黒川〉 田畑: 裏新田→排水が悪いため悪田 徳須恵新田 鍋屋新田 前新田 前田→良田で、麦と米の二毛作 山・川: 飛太郎→馬に乗って太郎が飛び降りたという言い伝え はげ山 川上川→今は拝川と呼ばれている はとの浜 前潟→伊万里港の浅瀬 でい(道) 千坂→隣村につづく古道。今は作業用に使われている。 上立道 山中道 金剛島 用水: 根是の溜池 黒川で最大の溜池、慶長年間、寺沢志摩守によって完成。小黒川村中の水を供給していた。 〈昔の村の生活〉 農業: 米の他に、麦、いも、さつまいも、桑、マフラン(ロープをつくる原料)を栽培していた。米は俵にいれ、乾燥しているところに保存されていた。肥料は、主に、ふん、石灰、りゅうあん、牛糞などが使われていたらしい。農家では、たいてい牛を飼っており、米、麦を販売して自給自足の生活を送っていた。 少々の干魃では被害を受けることはなかったが、水が不足したときは、自然待ちしかなかったようだ。 漁業: 昔は、イカ、コノシロ、アジ、タコ、貝類など多種類の魚が採れていた。明治以前より続いていたものに、藻引網がある。藻引網とは船一艘で囲んで5,6人で網を引き上げる漁法である。 また、拝川(当時は川上川)の河口、川上では、毎年2月から3月にかけて白魚漁がおこなわれた。 しかし、現在は漁業権を失い、漁業は消滅してしまった。 昔の村では、上組(辻組)、中組、下組(横土井組)に分かれていた。上組には農家、中組は主に農家であったが、他にもいろいろ混ざっていた。下組では商業が発達しており、20戸ほどの商店が軒を連ねていた。昭和の初期にバスが運行するまで伊万里〜黒川間に米福丸という機動船が荷客を運んでいた。村では、会合が開かれ、欠席すると「でぶそく」となり、罰金制があった。女が出席した場合でも3割払わなければならなかったそうだ。風呂をたくためには、麦わら、薪を利用していた。それらは、個人の山からとってくることが多かったが、時々よその山へ入ったなどとの争いもあったらしい。共有林からとる場合は、役員の許可が必要だった。 〈現在の村の姿〉 地形的にはさほど変わってないが、若い人が町を出てしまうため若い人が減っている。新しく、移ってきた家も2、3軒のみである。今では、ほとんどが兼業農家になっており、米とみかんも少々栽培されているそうだ。 *しこ名は昔と今では変わりはない。 〈村の歴史〉 ・黒川左源太夫祭 「もっこ祭り」 干拓用の土砂取り場跡地の竜宮社では干拓事業を進めた当時の進めた当時の唐津藩主寺沢志摩守藤原広高大人の命の顕彰碑の前で神官を中心に大和多津美大神の旗もち3人が「一礼右回り」を3回繰り返した後、寺沢藩主の功績をたたえる祭りを行う。 そのあと、神官を中心に人柱に見立て、20〜30人の男性が円陣をつくり、素足で白扇をもっこにみたてて、もっこの土を投げ込む所作をしながら周囲を回る素朴な踊りを舞う。 今から380年前、慶長年間、殖産事業として黒川の入江をしめきって新田35ヘクタールの造成が行われた。当時、駆り出された人夫の酷使ぶりは言語に絶したと語り伝えられている。しかし、大潮のたびに潮止めの堤防が流され最後の手段として人柱をたて海神の加護を受けたという。人柱となった庄屋の名前はわからない。 潮止め工事の完成は慶長10年8月陰暦14日 村人たちは喜びと感激のあまり監督も人夫も一緒になってもっこの土を返す手ぶりで、海神の前で人柱の供養も兼ねて感激の歌に手拍子を揃えて踊ったという。 *もっこ・・・土を運ぶざるのようなもの。稲、藁で作られていて、現在は使われていない。 *左源太夫・・・黒川左源太夫遥 天永3年(1112年) 北畑(唐津)の岸だけ城から派遣されていた。 ・海神祭 8月14日、大黒川・塩屋・小黒川によって行われる大和多津美祭を祭る神事である。干拓地・裏新田を洪水や暴風域から守り豊作を祈願して後、浮立、踊り手、お供の道行があり、龍宮社(旧綿津美神社)で「もっこ踊り」が奉納された。 〈無くなった風習〉 ・子供の虫取り 6月頃、ホタルが出る頃になると、菜種の殻を束ねて「ホーホーほたる来い。あっちの水は 苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」と呼び出しながら追いかけて歩いた また、「トリモチ」の川をはいで、「トリモチ」を作り、小竹の先にまきつけ、そっと近づ け、セミをとっていた。 ・盆踊り 盆踊りは明治、大正の頃はお盆に限らず、観音様や、地蔵祭り、またはお大師様祭のような夏の祭事にはつきものであった。団扇をもてば、盆踊りというほど、老若男女の踊りであった。 ・お歯黒(鉄漿) 鉄漿親や親族等の福徳ある婦人を介添えとして歯を染めた。明治維新以後、政令で禁じられ、次第に減少し、大正末期には消えた。鉄漿の作り方は、濃い茶の中に古い釘などを焼いて入れ、酒やあめを加えて発酵させて作った。 ・綿帽子 綿帽子は嫁以上の婦人の帽子で、外側に真綿、中心に綿が少し入っていた。結婚式の花嫁は大正十年頃までは、この綿帽子を島田の上に横かぶりでかぶった。葬式の場合は、この綿帽子を縦にかぶり、余分な部分を後にたらした。 〈感想〉 ・岩永圭子 村の区長さんはとても親切にしてくれたうえに、昔のお話もとてもおもしろかったので、とてもいい体験が出来ました。今では、昔のことを知っている人がほとんどいないと聞き、このような、歴史や生活についてのことが、そのうち消えてしまうかもしれないと思うと、残念に思いました。私の町にも歴史はあるのかなと興味を持ちました。 ・浦底愛子 まず、PHSの電波が入らないことに驚きましたが、思ったよりも結構ひらけていました。突然お邪魔したにもかかわらずとてもよくしていただいた区長さんに感謝しています。小黒川は山にあって、ウグイスが泣いていたり、クーラーをつけなくても過ごせたりしてとても落ち着く町でした。左源太夫碑を見に行きました。まだ時間がたくさん残っていれば、いろいろ見て回りたいと思いました。とてもよい一日でした。 |