現地調査レポート/伊万里市/大川町川西

調査者:山口陽介 1TE98645

    早谷邦彦 1TE98587

村の名前:大川町川西

お話を伺った方:中井一夫 大正十二年生まれ

        中井仁一郎 昭和二十三年生まれ

75()久々の晴天であった。はじめ、川西の南の方へ行って、昔のことを知っているか尋ねると、「向こうに住んでいる人が80歳をこえていて、よく知っている」と言われた。なので、今度また北の方へ戻って、聞いてみると「この辺一帯のお年取りの方々は昨日から旅行に行っとらす」と言われたのだが、「向こうの方なら誰か知っている人がおらすばい」と言われて、また、南の方へ歩いて行った。それから何軒家を回っても「私は昔のことは知らん」と言われ、残りの家があとわずかしかなくなってきた。

もう半分諦めていたとき、中井一夫さんに出会った。非常にいろんなことを知っていたので、何時間にもわたり、お話をしていただいた。「しこ名とは何か知らないが、この辺で言われている地名なら知っている」と言われたので、どれがしこ名でどれが小字かわからなかったけどできる限りのことはした。話の後に、大川町の特産品である大川梨を食べさせてもらった。昔までは米中心の農業が盛んであったそうだが、米の減反政策により副業だった果樹園が本業に変わったそうだ。果樹園では、なし、いちご、なすびなどがとれるらしい。

 

○川西の館と聴聞宗

川西は天慶五年(九四二)一〇三〇年前頃、今日の大和民族の流れと思われる一族郎党がつまり優れた知識と技能と文化を持った一族が館(やかた)に移り住んだのだろう。この大和文化を身につけた一族は、京の都に相似した集落をつくり、風習は勿論、日常生活においても普通の異人たちとは大分変わっていた。

館の山に(カヤ)の住居を建て、周囲には空壕がほってあり、この空壕からさらに登っていくと石塁があります。現在でも、ところどころに石塁だったと思われる石が積まれ、並べられているのがわかります。永い年月がたち、石塁は崩れ、壕は埋まってしまってるけれども、昔のその面影は充分に残っている。この石塁の外周には木柵をめぐらし適当なところに簡単な門を造り、門のそばには郎党たちの表屋があって見張り番もいたと思われます。この館山からは眼科に長野田原がほろ刈り、川原、山口、立川、駒鳴、大川野が一望でき、また、眉山、八幡岳が真正面にそびえているのが見える。やはり大野川では最も適した館でありましょう。

この一族は頭(かしら)を殿と呼び、よく仕えていたのです。そうして良く統制のとれた一族でした。何でも頭(かしら)である殿の指図でよく働くため労働力も充分でした。

館から烏帽子、寺野、水上、永田と次々に勢力的に開拓されたので、数年のうちに富を蓄え、勢力を保ち、財産基盤を確立して川西荘を築いたのです。また一族は敬信の念が厚く、烏帽子岳に大権現を祭祀して尊崇し、五穀豊穣、病気平癒の祈願をしたのです。当時は神仏混淆の時代であったのですが、寺田に聴聞宗の寺を建立し、仏教信仰も特に熱心だったのです。聴聞宗寺の跡は今では全然残っていませんが、おそらく現在の川西堂のところに建設されていたものと思われる。それは聴聞宗の中央に配するところの聴を刻んだ切石字が残されているのです。礼記によると、「聴於声視於無形」とあり、当時においては高度な宗教であったようです。

以上のように川西は何百年も前から、この一族を始まりとして気風、伝統が育まれ、その偉業の歴史が積み重ねられて、今日のすばらしい人たちと里があると言えましょう。

 

○大川町の行事

大川町には、一年のうちで様々な行事がある。正月が終わって17日に、まず、「鬼火たき」が行われる。7日の日、前の日にとった、竹を組んで燃やすと竹が破裂して大きな音がする。その度に「鬼は外」と叫ぶ、燃え終わる頃には、餅焼きが始まる。早いとこでは、午前2時ぐらいから始めるらしい。この焼いた餅を食べれば、風邪をひかないと昔から言われている。

813日、14日には「虎回し」が行われる。これは、子供の祭りである。正月に対して盆の獅子舞とも言われ、仏様がお盆に帰ってくるのでそのために行われる。初盆のところには普通のやり方ではなく、特別なやり方で行われるそうだ。

824日には「地蔵祭」が行われる。これは地蔵の大祭である。これは非常に昔から行われている祭りであり、毎年、新しい手作りの山笠をひきまわす。

 

○しこ名

フナグラ(船倉)

→そもそも川西のあたりは天領になっていて、このあたりは佐賀県の中でも有数の稲作地帯であったため、お城に米を年貢として納めていた。当時は物資を運搬する手段は馬か船であった。このあたりにはちょうど川が流れていた(今の松浦川)ので、その川幅を広げて、交通の要所とした。その水路の先端がちょうど川西のあたりまで延びてきていたため、その水路がなくなった今でも、そのあたりのことをフナグラ(船倉)と呼んでいるそうです。

 

エゴ(江湖)

→フナグラのあたりでも言ったとおり、このあたりは稲作が盛んで、昔から水にも恵まれていた。松浦川は今も多少うねっているが、むかしはもっとぐにゃぐにゃで、大雨になるとそのたびに氾濫して洪水を引き起こしていた。そこで民家の近くの土手を少し高くして、洪水対策とした。そのあたりのことをエゴという。

 

タタラ(田々良)

→タタラと呼ばれているこの周辺一帯は昔からたくさんお米のとれる田んぼだったので、この名前がつけられたそうです。

 

イデノハラ(井手之原)

→名前の由来は分からないが、井手之原が戦国時代の首切り場所だったという話は非常に有名な話だそうです。今ではよくその当時の武者の霊がでるらしい。

 

アミダ(阿弥陀)

→昔からここには木の仏像が並べられていたので、この辺を阿弥陀というらしい。

 

シミズガワ(清水川)

→昔からきれいな水が流れていたため、この名で呼ばれているそう。

 

テラノ(寺野)

リョウガミ(竜神)

ズイセンデラ(ずいせん寺)

ミズカミ(水上)

フカザカ(深坂)

ホリバタ(堀畑)

モリ()

→昔はこの辺は森だったから、今、モリと呼ばれているらしい。

タチ()

 

 



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