【伊万里市南波多町笠椎】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1TE98511 権田初美

1TE98571 西村宏平

1TE98585 林剛一郎

話者:    前田さん(昭和122月生まれ)

              山口光義さん(昭和94月生まれ)

              梅村さん(昭和64月生まれ)

調査地区:笠椎(かさじ)

 

行動の記録

 バスを降りてから、2時間近く歩き続けた。

最初の頃は廻りには田んぼとビニールハウスばかりがあった。ビニールハウスの中ではナシが作られていた。

田んぼと道路の間には水路があり、その水路から田んぼに水を引いているということか推測された。

田んぼを抜けると今度は山道に入った。山道とはいってもきれいな道路で、何台かの車が私たちの横を通り過ぎていった。私たちが通った道を、歩いている人は珍しいのか、車は通っているが、歩いている人にはすれ違わなかった。

山道を抜けると、古川の集落に着いた。そこで、古川で調査する人たちと別れて、また歩いた。それから先は平らな道だったので、楽に歩くことができた。笠椎につくと、まず、前もって連絡しておいた区長さんのお宅を訪ねることにした。

その途中で、田んぼで働いている人がいらっしゃれば、話を聞いてみようと思い探してみたが、いらっしゃらなかった。区長さんのお宅に着くと、区長さんが出てこられて、快く質問に応じてくださった。

その後は、源光寺というお寺で昼食をとった。その際、住職さんがいらっしゃったので話をうかがってみようかと思ったが、プリントに寺は農家ではないので、話を聞いてもムダだと書かれていたのを思い出し、やめることにした。

昼食を食べ終えた後、また、田んぼで働いている人探してみようということになった。

 

[行動記録のつづき]

 しかし、田んぼで働いている人はいらっしゃらなかった。仕方がなく、その辺を歩いていると、山口さんという人が家の外にたっていらっしゃったので、話をうかがってみた。

 行きに2時間半近くもかかってしまったので、早めに帰った方がいいだろうということになり、まだ4人しか話をうかがっていなかったが、帰ることにした。

 しかし、帰りは下り坂が多かったため、1時間強くらいでバスの待ち合わせ場所に着いてしまった。そこで1つ前のバス待ち合わせ場所まで行き、バスに乗って帰った。

 

感想

 行き帰りの道のりは、とにかく暑くてきつかった。プリントに、方言の例などが書いてあったので、言葉が通じなかったらどうしようかと思っていたが、向こうの方が分かりやすく話してくださったので良かった。

 特に梅村さんのお宅では、おばあちゃんに分かりにくい言葉を、奥さんが伝えてくださったので助かった。

 行き帰りの道はつらかったが、区長さんをはじめとして質問に応じてくださったし、いろいろな土地に行って直接現地の人々と接したという経験は、自分にとってとても良いものだと思う。だから、今回、佐賀県の調査に加わってみて良かったと思う。

 

地図について(原本は佐賀県立図書館所蔵)

地図の●()……現地の人にうかがったしこ名(青丸は家号) 

深緑色の→……昔、隣村へ行くのに使った主な道

 朱色の線――……現地の人にうかがった村のだいたいの範囲

 黒色の字●……小字

 

しこ名について

〔小字〕              〔しこ名〕

萩城野              オサキ(尾崎)

                         シキジ

                         ハギノ(萩野)

                         ナカダ(中田)

下田                  フジノ

                         イシバシ(石橋)

井手口              イデグチ(井手口)

花畑                  ハナバタケ(花畑)

                         シロタニ(白谷)

広田                  キリノキ(桐の木)

瀬戸首              セトノクビ(瀬戸首)

谷口                  タニグチ(谷口)

線立                  ミズナシダニ(水無谷)

                         ハチバンメ(八番目)

                         オオタニ(大谷)

                         アズキノ(小豆野)

                         オトロシダニ(おとろし谷)

 

現地調査で分かったこと

・昔は、笠椎全体をフジノと呼んでいた。

・合橋は昔は逢橋(人と人とが逢う橋)と書かれていた。

・谷口は谷の入口という意味である。

・石橋(家号)は、昔、その前に石橋があったことから名付けられた。

・しこ名の由来を調べたクマガワさんという人の資料が残っているらしい。(クマガワさんは去年亡くなられた。この日は日曜日だったので資料を見せていただくことは出来なかった。)

 

Q 水はどこからどのようにして引いていますか。

A 99%が市の浄水です。1213年前くらい前からです。大半は有田川から引いています。70%ぐらいですかねえ。浄水を使っていない家も4,5戸ぐらいあり、井戸水を引いていますが、4年〜10年に一度は涸れるようです。

 

Q 94年の水不足のとき、どのようにして凌いだのか教えてください。

A こちらでも給水制限はありましたが、94年のときは幸いにして制限は3日だけでした。次の日くらいから制限を厳しくしよう、という時に、ちょうど雨が降ってくれました。だから、伊万里は、もちろん節水に協力しましたが、そこまで困り果てはしませんでした。

 

Q 南波多町笠椎の隣町へ続く道を運ばれたもの。

A 人……もちろん人が通っていた。

 米、野菜など……牛の背中に載せて運んでいた。当時は道が現在のように整備されていなかった。そのため、リアカー、馬車などは通れなかった。

 ※リアカー、馬車などは戦後にできたらしい。

 

Q 50年前から現在にかけ、米以外に作っていたもの。

A 麦、菜種などで、外に製紙もやっていた。製紙(和紙)40年くらい前までやっていて、村でだいたい30戸ぐらいがやっていた。今は全くしていない。おもかげも全くなかった。

 

○昭和30年頃は“米”が生活の中心だった。

 米は1俵でだいたい3,000円ぐらいで売れた。当時の学校の教師の給料がだいたい4,500円〜4,900円ぐらいだったので、かなりよかったらしい。

 1反でだいたい67俵取れたらしいので、たいしたものだと思った。さらに、20年ぐらい前までは、仕事をした給料が、お金で支払われずに米で支払われていた。それほど米が重要であり、生活の中心であった。

 

現在、米は2斗で数千円らしい。

 

米について

 現在では、どこの田であっても、ほぼ均一に米がとれる。昔は、平地よりも山に近い方がとれる米の料は比較的少なかった。

 今は全部への田の30%以上の減反をしなくてはならなくなっていて、結構厳しい状況にあるみたいだ。ちなみに今は1反でだいたい450kg500kgくらい収穫できる。

 

肥料、家畜

 戦前の肥料として、牛、鶏などの糞が主な肥料で、だいたい90%ぐらいであった。現在は戦後から化学肥料である。米以外にも果物(特に“ナシ”)や畜産業などで、農家がワラをやって、その代わりに12月〜3月頃、堆肥をもらうような仕組になっている。

 

現在、専業で農家をやっている人は、村全体の1213%ぐらいしかいない。しかし、この比率は高い方で、他の所では78%ぐらいだそうです。



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