【伊万里市松浦町上分】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1TE98610 松井 宣明

1TE98444 朝井 雅剛

 

調査にご協力いただけた方のお名前とお生まれ

・川崎 照己さん  昭和9年5月生まれ

・山ロ 雄三さん  昭和5年7月生まれ

 

 

<村のしこ名について>

 村のしこ名については、上分区長からの話を主として20ほどのしこ名を得ることができた。田、橋、谷、山、そして目印となる石や木などを中心に教えていただいた。それは、別紙の地図に場所とともに記載する。また、単にしこ名の呼ばれ方だけでなく、そのしこ名のついた理由についてもあわせて尋ねてみた。昔からの呼ばれ方だからよくわからないという答えも多かったが、いくつか理由のわかるものもあった。その例としてあげると、村の西側にある山の頂には(龍石:タツイシ)と呼ばれる石があり、その石に名づけられた由来は、大昔に龍が空から舞い降りてきて石に化けたというものであった。一方、そのような言い伝え的なことによる由来以外には、上分の村に沿って南から北に向かって流れている川のほとりに(カワバ)と呼ばれる地名があり、それは以前川が流れていたけれども川の蛇行によってその場所が干上がり、その後その場所に集落が形成されたために名づけられたものだという事実に基づいているものもあった。

 最終的には、いろいろなしこ名を得ることができたが、田のしこ名については上分区長からほとんど分からないという答えが返ってきた。その理由は、田に付けられているしこ名は持ち主の名前やあだ名のようなものを付けたものがほとんどであって、持ち主の死去などにより他の人に田が受け継がれるとしこ名は変わってしまうし、持っている個人が勝手に付けているものであるから、余程の親密な関係がないと知らないし、当時は知っていたとしても次々と変わっていくので、記億に留まっていないからだったというものであった。

この(しこ名)の調査は、全体を通してうまく行うことができたが、年配者からしか聞けず、また曖昧な部分もあったことから、この調査の一番の目的である過去にいわれてきたその土地特有の名前が失われてきているのを記録に残すということの重要性を直接心に深く感じた。

 

<村の水利について>

 水資源は、上分の村の西側を流れている川と山間部にあるため池から得ていることがわかった。またこの川とため池は、隣町にも水資源を与えており、水を共有していることも分かった。

 上分の村の水利については、まず最初に1994年の大旱魃について尋ねてみた。やはりその当時は深刻な問題であり、7月の上旬にはもう既に23あるため池が完全に干上がってしまっていたということであった。即急な対応として、川を塞き止めて一時的なため池を作ることで少ない水資源を確保したということであった。けれども飲料水としての水に対しては、特別に不自由することはなかったという話もあった。つまり田に送る水資源に問題が生じ解決に困難を要したということだった。また前に述べた一時的なため池作りによる確保の他に、普段は行われていない川からのポンプによる水上げを行い、水を確保したということもあわせて聞くことができた。

 その後、マニュアルに記載されていた問題である、もしこの大旱魃が40年前であったら現在とどのように違った結果がもたらされているかということを尋ねてみた。答えは、特別に違いはなく、そんなに苦労しないだろうというものであった。その理由は、大旱魃が起こってもその一年は水資源に支障があるかもしれないが、2年続けて大旱魃が起こる可能性はほとんどなく、次の年がくれば例年と変わりなく田植えができ、米の収穫ができるからだということであった。

 次に、過去に水争いがあったかどうかについて尋ねてみた。記録には残っていないが水資源が絶対不可欠なこの地域だからこそ、きっとあっただろうという答えだった。

 この村の水利の調査を通して、区長から最後に、生活をしていく上で私たちは水との共存が大切だ、と言う言葉に本当に深いものを感じた。

 

<米の生産について>

 米の生産については、村の中で収穫量の差があるのか、あるとすればどこが良い田でどこが悪い田なのか、またそれぞれの田で米の味は異なっているのか、ということについて尋ねてみた。すると、区長から明らかにそのことについては差があるという答えが返ってきた。収穫差について具体的に述べると、上分の村の南部にある(平尻:ヒラジリ)というしこ名のつけられた場所と、上分の北に位置してある隣町の中通の村の全域が、とても収穫量が高いということであった。また、米の味の面についても、ヒラジリと中通が他の地域と比べても群を抜いて非常に良いということであった。その要因は、やはり米の生産においてもっとも重要である土壌の良さがポイントとなっていた。土壌というものは、道路をたった1本挟んだだけでも大きく異なるものだという話も聞けた。

 次に、現在と過去の生産量の違いについても聞いてみた。話によると、戦前は一反の田から大体6、7俵の収穫ができたということだった。対して、現在では、化学肥料の使用により一反の田から10俵ほどの収穫が可能だが、日本の海外からの米の輸入などの問題により打ち出された減反政策によって、かなりの制限を受けているということであった。

 また肥料についても、現在と過去の違いについて聞いてみた。昔に使用されていた肥料はたい肥がほとんどであり、そのほかには、山にある刈りきり場(ゲンヤ)と呼ばれる所から草を刈り、田に入れることでより良い米が作れたということから、それを利用したということであった。対して、現在の肥料は、すべて化学肥料で、大量生産には非常に向いているが、米の本質的な味と質が落ちるという欠点もあるということが聞けた。

 米の保存についても尋ねてみた。しかし、すぐに市場に出荷し、また自分たち家族の分の保存といっても1、2年で食べてしまうので、特別に何かをしているということはないとのことだった。

 最後に米以外の収入について尋ねてみた。昔は、村の人のほとんどが山へ行き、桧や杉といったものの苗本植えをやっていた、ということだった。実際に米による収入だけでは年によって大きな差が生じることから、苗木植えをすることの必要性があるということが多くの村人が行っている一番の理由だった。現在においても、苗木植えは続いているとのことだが、行っている人の数はかなり減ったということもあわせて聞けた。

 

<昔の村のことについて>

 最初にこの分野では、個人単位の生活に関して尋ねてみた。米の生産のところでも少し述べたが、ここでも続けて生活収入の昔の状況について詳しく調査してみた。すると先ほど述べたことは戦後のことであって、戦前でも同じ6、7俵の米が取れたと言えど、そのうちの多くは帝国主義であった国に取られ、生活には本当に苦しんだというお言葉が返ってきた。またその理由によって米を主食にするなどということは決してできなかったので、その代用として、米の裏作として、米の収穫を終えた後に麦やなたねなどを栽培し育成をすることを行っていたというお話も聞けた。また田以外からも食料を得るために、山をこっそり切り開いて、焼畑農業を隠れて行っていた、ということだった。その焼畑農業も桧や杉の苗木植えのように多くの村人がやっており、そこから得ることのできた食料はかぼちゃ、里芋がほとんどであって、あとは少量の野菜類ということだった。この焼畑は本当に村人にとっての最終手段だったので、そのことを戦争のことから比喩させて特攻畑と呼んでいたとも合わせて聞き取ることができた。また、果物について尋ねてみると、以前はみかんが主であったということだった。対して、現在ではみかんも生産しているが、梨の生産量が伸びてきたということだった。

 続けて、個人単位ではなく、共同の生活に関して関いてみた。すると農業に関してはあまり共同ということについては思い当たらない、ということだった。代わりに風呂の共有、つまり共同風呂が村の中に2、3あったということが聞けた。これは各家庭にも大体五右衛門風呂があったとのことだが、風呂を沸かすために必要な薪の区分けの問題があって、共同風呂が成り立っていたということだった。

 今度は、村の地理に関するものについて尋ねてみた。まず隣町との交流のために使われていた道は現在と変わらず同じ道であって、ただ現在は舗装されているということであった。昔の学校については、この上分の村には一つもないので、上分の村の北側に位置する中通の村まで通っていたということだった。現在も上分の村には学校が一つもなく以前と同じように隣町まで通っているそうだ。

 

<村に伝わってきたことについて>

 長い間に渡って上分の村に伝わってきた事について尋ねてみた。すると農業に関することでいくつか時を越えて伝わってきたものが調査できた。ひとつは、昔はろくな天気予報もなかったので、上分の村の南西にある山の連なりに雲が長くたなびくと雨が降るというものだった。もうひとつは、上分の村からはるか南の、隣の長崎県にある、当時は電車でなく蒸気機関車が通っていた佐世保線から、汽車の汽笛の音がはっきりと聞こえた場合は必ず雨が降るというものであった。後者の方は言い伝えというよりも実際に温度における関係、また南から吹いてくる風の関係によってある程度予測できる正しいものであったということも知ることができた。

 

<今後将来の村の発展について>

 最後の調査として、将来の村の展望、発展について尋ねてみた。答えは残念ながら村が開かれる見込みは今のところ全くないということだった。村の高齢化、少子化も拍車をかけて、村の発展の可能性を少なくしているということも合わせて聞くことができた。今後の村の農業についても聞いてみた。こちらも同じように将来は思わしくなく、農業人口が減り、個人単位で行うケースは少なくなり、何人かの村人が団体を形成して農業を行っていく形を取るにいたしかたなくなるのではないかという話だった。

 

 

<行動の記録、感想> (松井 宣明)

 今回の調査でもっとも強く感じたことは、大学での学習スタイルのあり方がどうであるかということであった。入学当初から言われていたように、今までの勉強スタイルとは違い、自分自身が率先して行動することを大前提として、研究、調査に取り組まなければならないということに大きな戸惑いと不安があった。案の定、この講義でそれを実践しなければならなくなった。パートナーの人もこの講義で初めて知った人だったので、そのことがまた拍車をかけ、不安でいっぱいだった。佐賀での調査の指示を受けて、すぐに作らなければならなかった地図作りでは、パートナーの人と息が全く合わず、かなりの時間がかかってしまった。

 いろんなトラブルにみまわれて、調査当日は、とにかく今までの分を取り返す意味でも一生懸命に取り組もうという意欲が湧いた。自分たちのグループが行くところは、伊万里市の上分という村で、7月5日に行くバスに乗ったグループのうち、最も遠いところまで連れて行かれた。最後まで乗っているということには何か緊張感みたいなものも少し感じた。

 バスから降りて、地図を見ながら、手紙を送らせていただいた上分区長の川崎さんのお宅へ行った。まだ区長さんは帰って来ておらず、お宅にお邪魔をして20分ぐらいして、公民館の方に来てくださいという電話があった。公民館に行くとお二方来ていた。区長さんが、私一人よりはもう一人いた方が多くの情報を得ることができるであろう、とのことで山口雄三さんという方を連れて来ていらっしゃった。こちら側の調査にお力添えをしていただいたことに、本当に有り難い御厚意だと感じた。

 調査はまず、もっとも大事なしこ名集めから始めた。お二方から20ほどのしこ名を言っていただいた。由来や場所まで丁寧に教えていただくことができた。次に村の水利について伺った。農業と水利は密接につながっているので、4年前の大旱魃のことを中心にあらゆる角度から見た情報を得ることができた。それに続いて米の生産について尋ねてみた。戦前の苦しい時期の話や、良田と悪田との大きな違いの話など詳しく聞くことができた。

 その他、昔の村のこと、昔から村に伝わって来たこと、などについてもお聞きすることができ、長い間お付き合いをしていただいたお二方に本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。

 この調査が楽しかったとは言いがたい面もあったけど、大変だった分、とても良い経験ができたと感じた。またこういった自分から行動が求められる調査に取り組んで行こうと強く心に感じた。

 

<行動の記録、感想>(朝井 雅剛)

 今回の現地調査は、圃場整備によって滅び行く田んぼなどのしこ名を調べようということでしたが、僕はそれ以外のその村ならではの話に興味を持ちました。まず、「1994年に起こった大干ばつのときに村はどうなったのか?」という質問に対して、「ため池の水がなくなり、川の水も少し減ったが、別に問題はなかった。だが、水道管は整備されているので、水道から水を取り入れて田んぼに水を送ったりもした。」という話は、水が少なくなっているにもかかわらず、水を取り入れることができるというなんとも矛盾した話になにかきつねに包まれたような感じがしました。また、「村に入会地はなかったが、まきを取りに行くときは数人で取りに行き、そして均等に分けていた。」という話は教科書で学んだこと以外だったので、新鮮な感じがしました。また、「共同風呂があり当番制で風呂を沸かしていた。」という話にびっくりしました。また、「村の人が天候を知る手段としてどのような方法があったのか?」という質問に対して、「村の南にある佐世保線を通る汽車の汽笛が聞こえたら、その日には雨が降る。」と教えてくれました。これはこの日が、南風が吹いて湿度が高いために起こる現象だそうで、これには長年この場所で生活してきた村人の経験と知恵を聞けた話でした。

 この日が松浦町のバレーボール大会であって、上分地区が優勝候補であったために、区長さんの気持ちがバレーボール大会の方にあり、質問を始めて1時間が過ぎたあたりから、「はやく終わってほしい。」という気持ちが伝わってきたために、あまり長く質問ができず、別の人を紹介してほしいと頼んだが、「バレーボール大会に行っていていない」とか、「あのおじいさんはぼけが始まっているから質問してもだめだろう。」などと言って、別の人を紹介してもらえなかったために、村についてもっといろいろな情報を手に入れることができなくて残念でした。しかし、区長さんは一つ一つの質問にきちんと答えてくれ、親切に接してくれたのでうれしかったです。区長さんは、「これからの農業について、国の米の減反政策で米の生産量は減り、また、米の自由化で、「量」より「質」を問われる時代である。また、後継者不足で、一人で小さな土地を耕すのではなく、数人で広い土地を耕す農業に変わっていくだろう。」とおっしゃいました。私たちが生活していく中で、「食」は欠かせないことです。だから、上分地区のバレーボールのチームワークと同様に協力し合って、私たちが生きていく中でもっとも重要な「食」を支えて欲しいと思いました。



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