佐賀県伊万里市瀬戸町本瀬戸

 

1TE98472■  太田真平

1TE98586■  林博徳

 

話者:岩本利之さん(昭和10年生まれ)

 

一日の行動:

本瀬戸にてバスを降りる

→そのあたりの人数人に声をかけたが、あまり詳しくないと言って断られた。

→岩本利之さんの家を訪れ、快くいろいろ話してくださった。いくつか資料を提供してくださった。

→岩本さんの話の中に出てきた志賀神社にお参りに行く。

→牧島小学校を訪れる。

→岩本さんから紹介された弘川さんの家を探すが、見つけられず3時半となった。

→あぜ道を通って本瀬戸のバス停に向かう。

 

○しこ名については分からないと言われたが、昔の田んぼの名は2つほどわかった。

・瀬戸新田

本瀬戸に広がる大きな田。由来はわからなかった。この田は新堤から水を引いているらしい。

・はまんくり

本瀬戸北部に広がる田。由来は分からなかった。この田は近くにある名のわからない溜池から水を引いている。

 

○本瀬戸について

本瀬戸は昔海だった。そこを堤防を次々と気づき、開拓していった土地らしい。

瀬戸とは急流のことであり、塩田開発までは島々とのあいだに激しい潮流があった。そこに本瀬戸、早り、中通があり、それが地名となり今も言われているということだった。

 

土地の日は「本瀬戸といえば」というと塩田、カブトガニ、志賀神社という答えばかりだった。

 

僕らがたずねた所は、本瀬戸について尋ねるとどこでも塩田について話された。だから塩田について調べたことを次の3点に分けて書く。

 

1,塩取

34月になれば本格の塩取期となる。

日照の良い日を選んで塩取長老は海岸の井樋の上にたって、海水の流れ具合、満潮時一番海水濃度の高い時を見計らって「あの塩を入れろ」と号令する。若者が井樋に飛び込み塩取用の小井樋の板をとりはずす。海水は水路を周り各塩田に流れ込む、頃合を見計らって小井樋の板を元通りにする。

 塩田には砂を一面に広げて待っている。海水が適当に流れ込むと水路の入口を閉じて海水の流れ込みを止める。太陽の熱で塩田の砂は数時間で乾燥し始める。そのあいだに馬鍬を縦横に何回も引っ張り、上下ともに乾燥するように混ぜる(馬鍬は人が引っ張る道具)。塩田の砂が乾燥すれば砂は塩に覆われ、真っ白な砂となる。この白砂をヨセを使って何十箇所にも集めておく、この集めた白砂をオオダで運ぶ。女が前、男が後ろ、いつも夫は妻を助ける。オオダに積んだ白沙をコミに入れる。コミは長さ四尺、高さ九尺、四尺位を三和土で作り、昇降道がある。コミのそこには竹簀がある。コミに山積できればヤナ(収水日)附近に海水を大気柄でかける。何回もかけると海水のために白砂の塩は溶けて、コミンタイをとおり留まる。その濃厚塩水にご飯粒をふりかけると濃度の強い時は浮き上がる。濃度が弱ければ沈む。濃度の検定である粒が沈む時は、海水掛けはやめる。

 塩田一反くらいに五ヶ所くらいある全部のコミを終われば、ひとまずホッと一息する。今度はコミよりオオダに乗せて砂を取り出し、塩田に列を作って置く、オオダに積んで運ぶときは、女が前、後ろから男が押し、帰りは女が後ろ、男が前から引っ張って助ける。

 濃厚塩水を塩屋近くのツボ(水桶片方二斗入位)に運ぶ。ツボは貯水場に何個もあり屋根を稲葉などでおおってあり、周囲は三和土を叩きつけてある。

 塩焚の順番が来ればこのツボの濃厚塩水を塩釜で煮込んで焚くのが塩焚である。定められた薪の把数を焚き終われば、大豆の豆汁を作って塩釜に入れると茶黄色の濃厚塩水は真っ白く結晶して塩となる。塩焚様は素早く釜より塩を取り出し竹簀の上に山積みする。

 塩田では黙々とオオダで運んで砂々を濱鍬(大きな板鍬)で塩田一面に広げ、明日の天気を待つらしい。

 オオダで塩砂を運ぶときは、女が前、男が後、コミに上がれば横になり、いちにのさんで片手を上げると沙は丸まってポイとコミに入る。男が前に女を引っ張って行けば、伯父様が別のオオダに塩砂を積んである。交替のオオダを使うので休む時間はない。夕立や雨が降る前の多忙は塩取丈が知るヨセで黙々と集砂した砂山に雨覆いのトマを覆う。長時間の降雨となれば覆った真っ白な乾燥砂もダメになる。

 娘は塩取りには嫁にやるなという言葉があったとか。多分娘を塩取りに嫁がせた母親が夏の暑い真っ盛りにも塩田の仕事を見て、さぞ暑かろうとかわいそうにと思い心から出たものであろう。

 

2.塩焚

塩焚は太陽乾燥だから冬期はできない。春2月ころの良い日を選んで、各人ともに初釜と言って献上した。塩をひと釜多く焚いて献上した。塩は税金と同じく、殿様は家来たちに分配する。配分された各家庭では家庭用、また歯磨き等に利用される。

 小さい俵に三ヶ所縄をかける。これが塩俵である。塩取り専業は、冬期筑前の炭鉱出稼ぎや塩釜石集め、塩釜屋根込などの修繕等である。

 塩屋の屋根は、稲藁及び、カヤなどで覆い込み、三和土を叩きつけ濃厚な塩水が流出しないように入念に行う。釜石は安山岩類の固い石を扁平に割り、釜底を作る材料である。釜底は中央に砂岩質の柱石を立てて、その上に大版という扁平石の大きな石を置く。その次が小版という扁平石を釜の周囲と大版に重ねて、数枚置く。小板は石の形などにより、数は定まらない。大版と小版のあいだに小粒を置き、釜底全体に石を張り、三和土で固めて、そこの出来上がりである。周囲の壁は、砂岩質の石と三和土で固めて作る。

 釜石集めが大変である。当地方の瀬戸・木須隣村の山の石は取り尽くし御厨・平戸方面迄幾組も宿掛で出掛ける。

 塩釜は塩濱グループの共同物である。山の石を探りおこし扁平に割り、海岸まで運ぶ。2,3週間も宿って船で運んでくる。塩焚注にも底が破れて釜の中の濃厚塩水が流れ込んで大きな塊となる。釜石は予備品が必要である。修繕が終われば冷え切った石釜だから塩量が少ないので順番にする。塩焚薪は一釜分、何杷と定まっている。連続で焚くときには焚き終わった塩は最後まで取らないで、次の番の濃厚塩水を早く煮込む。釜の底が余熱のために痛むからだ。釜焚様は専門の人がグループで居り、年中素足でシャツ1枚、フンドシ、縄帯である。塩屋は中央に塩釜、周囲には竹州が並んで居る。焚きあがった各人の塩を山積みするまでが釜焚様の仕事である。時折、塩買い商人は塩屋の煙を見て買い付けに来るので、釜焚様が心配している。竹州の上に一定の期間放置してニガリを除く。老母は塩俵を編み、伯父は俵作りをして、何時でも注文に応じ、商人が来れば何時でも出来るように積み重ねておく。子供や子守は塩屋で遊んで甘藷や大豆などを焼いて食べている。時々釜の火を出してくれるので、よき遊び場である。釜焚様が面白い話を聞かせてくれるので、彼のところと塩屋に遊びに行くが、そのかわり塩濱には出入りを禁じられている。砂を塩田一面に太陽乾燥で広げてあるので、その上を歩き回れば足跡が立派について面白いから子供は遊びたがるが、見つけられると大目玉を食うのである。今残るものは、塩屋の屋敷跡に赤くなった釜石が残っている。

 

3.瀬戸の塩田

鍋島直茂公は塩は国産自給の道を開くため成富兵庫茂安を築堤奉業で派遣し、慶長13年着工し、慶長19年竣工して製塩を開始した。

黒田藩の姪浜より柴藤藤左衛門、津上二平外7家族を製塩師として招き、慶長19年の年暮のことである。正月の餅も間に合わず牡丹餅で正月を迎えられたとのことである。塩取守護神として姪浜の住吉大明神の分神を祭り志賀神社を建立された。

中通の塩釜神社に関係の碑が建立されてある。

明治44年塩専売制になり創業300年で終わった。廃止保証金向5ヵ年分の金額が不明。この保証金を基金として瀬戸産業組合が有志数人で発足。県下でも1,2の古い組合であった。

この後は牧島産業組合と合併し、現在、伊万里市農協となっている。

 

 最初に訪問した岩本さんのお宅で田植え時期の4月に毎年その年の豊作を願って田祈祷という行事があることを聞かされた。その田祈祷という行事について聞かされたことを今から書きたいと思う。

・田祈祷は瀬分で決定されているので、総代は神官に案内しておく。その当日使役(公使)を使って、木起神社の掃除、御神物のお供え物、酒肴などの準備をする。使役は忙しく、昔は立町の天神様の神官(二和山様)で大般若経(1)を取り寄せ奉納があったとか。その後、加志田神官と代わり、般若経はなかった。酒の肴のぬた豆は総代の家出使役が作ってきていた。後には各人が持っていくようになった。神事には総代が一束の種苗()を神官に渡し、神官は苗を受け、神前にお供えする。神官は田虫不生祈願祷のお守りを神前にお供えして神事が行われていた。神事がすめば酒宴となる。

はじめに、部落内における出来事他、伝達他の協議である。部落の協議は滅多になく、田祈祷風願就日位であった。他は、23人の有志で決められていた。酒座になれば、右手に杯、左に肴のぬた豆を手のひらに持って飲んでいた。田植え終了を感謝し、豊作を祈願する風習である。(奉納浮立があった)お守りの田虫不生祈願祷は各人が貰って帰り、青竹にはさんで自分の田に立てていた。浮立は必ず奉納されていた。

以上、岩本利夫さんによりいただいた資料を参考に記しました。



戻る