佐賀県伊万里市東山代町日尾

 

1EC98185■ 円能寺誠

1EC98195■ 木本智士

 

話者:刃武保隆さん(大正14年生まれ)

 

〈字〉

・日尾崎           ・夏崎

・八谷搦           ・平

・夏崎搦           ・幸兵工搦

・中島搦           ・白幡搦

・木須搦           ・東山代干拓

・戸ノ須搦          ・戸渡島搦

・笹尾搦           ・松島搦

・大坪新田搦         ・松尾搦

・長浜塩田          ・天神搦

・長浜新搦          ・木須新田

 

〈通称・しこ名〉

・平戸道           ・伊万里富士

 

〈しこ名の由来とその説明〉

・伊万里富士・・・正式には腰岳というが、富士に似ていることから昔からそう呼ばれている。

・平戸道・・・伊万里町から平戸市への街道。伊万里湾沿いの道。昔商人が通っていた。

・八谷搦・・・安永年間(177281)

 八谷善兵衛が奉公して成立

・有田川・・・黒髪川より下流。全長20km川口に八谷搦が造成されるため川東より北東流していたのを現在のように北流に変更した。水力利用としては窯業開始以来水碓が稼動していた。

陶石を粉砕して陶工や紬薬をつくるため水量の重みで杵を上下させる仕掛け。

 

〈ひらけゆく田地・搦〉

伊万里城が、竜造寺に開城させられ、鍋島氏に所属した直後、伊万里津はすさまじい発展の時期を迎えた。太閤秀吉の朝鮮の役が始まると、此処は、鍋島藩のよいいつの軍港として文禄元年(1592)412日に鍋島直茂の率いる軍兵12千は伊万里津から出航した。直茂の国吉丸は稲荷神社の楠木から船縄をといて出征凱旋のときも此処に上陸し、戸渡島神社には記念の松を止宿常光寺には幕紋を残しました。朝鮮の役は慶長に及び、その7年間は人馬の補給、軍需品の積み出しで栄え、伊万里の津としての大躍進の基礎はこのときに築き上げられました。

その後、鍋島藩は此処を水軍基地として、本藩の船屋跡には船屋町の地名を、小城藩の船屋跡には船屋の地名を残しました。

又、直茂ゆかりの常光寺は歴代藩主参勤の止め宿地とされ、伊万里津は海港としての重要性をより高めていきました。

しかし、藩の事業としての塩田開発が慶長年間から始められると、これと前後して干拓奨励され、各地に海面の埋め立てが流行しました。今の土井町の中井桶が完成して「新田」が造成されたのは伊万里焼貿易の始まった寛永年間でした。

今では蓮池町、土井町になっています。

今から二百八十年前の永享五年に白幡搦ができています。それから二十年後に戸之須搦ができました。これは京阪市場と取引の始まった享保の頃です。それから三十年後に笹尾搦が築立てられました。大川内山に皿山代官が設置された宝暦年間には戸渡島搦と幸兵工搦が向かい合いに竣工、それか二十五年後に八谷搦(伊万里湾で免責最大で百四十ヘクタール)が完成し、出来たての搦新田は海中に進出し、界面は逐年狭められて、土砂の堆積を招き、その結果港湾としての伊万里の繁栄にブレーキをかける功罪両面をもたらしました。

 

〈その他〉

 日尾に行寺があり、そこに力武さんという人の像があったのでどういう人か聞いてみると、昔、搦の田を買って村の人に分け与えた名士らしい。

また、日尾では黒曜石がよくとれるらしく、伊万里富士と呼ばれている腰岳でよくとられるらしい。

 

〈今回の調査にあたって〉

・円能寺誠談

はじめ訪ねるはずであった土井祝男さんが法事で留守であったため、いきなり予定が狂ってしまったが、日尾町の方々の家を一軒ずつ訪ねていき、ようやくある老人が少しなら話せると言ってくれた。

平戸道のことや、夏崎、日尾崎、平といった字を教えていただいた上にコーヒーもご馳走になった。

ここで歴史民俗資料館のことを聞いて、僕たちはそこへ向かうことにした。さっきいた平戸道を通り、途中からタクシーに乗った。そこにはさまざまな資料がたくさんあったが、日尾に関してはほとんどなく、やはり老人の話が一番役に立つことを痛感した。しかし、ここまで来て諦めることはできず、さらにタクシーに乗って図書館へ行った。関祭りのようなものが行われていた。そこで搦に関する資料が見つかったことは収穫だったが、時間も迫っていたので帰ることにした。

一番感じたことは、物知りなお年寄りこそ僕たちが探さねばならなかったものだと思った。

・木本智士談

区長が不在でいきなり出鼻をくじかれてしまった。出てきた女の人が「隣のおばあちゃんなら知ってそうよ。」というので、訪ねてみたが、あまり情報を得ることはできなかった。仕方がないので、その先にある寺に行った。樹齢300年の大木が立っていて、空を覆い隠していた。聞くところによるとその寺は「安寺」とかで、修行が行われていたそうだ。結局その方もよくわからないとおっしゃったので、片っ端からあたってみるとことにしたが、誰もわかる方がおられず、照りつける太陽の下で立ち尽くした。泣きそうだった。それでもめげずに当たってみた。すると力武さんという方が少しならわかると言われるので、話を聞かせていただいた。コーヒーまでご馳走になった。「手前の道は平戸道って呼ばれていてね。」「平戸って言うとあの長崎の?」「そうです。長崎から昔この道はずっとつながっていたんですよ。」「こ、この道が?」大通りでもなんでもない、車一台しか通れなさそうな道なのに、そんな昔利用されていた道だったとは・・・。何気ない一本の道にも壮大な歴史が秘められていると思うと、その時の空気を吸っているような気分におそわれた。前より少しだけ強く、私は足を踏みしめた。僕たちのこの世界は先人によって少しずつ進化し、今ではきや土のある町も少なくなり、言語も変わり、衣食住も変化してきた。変化してよりよい方へ行くことに、私はなんの反論もない。だが、先人たちの努力を忘れてはならない。先人たちの文化、慣習を大切にして、後世に伝えねばならない。そう実感した一日だった。机上での学習も大切であるが、歩き、見、触れる歴史学−ぼくらはこんなチャンスを無駄にせず、がんばれただろうか。先人の言葉はどんな書物より価値がある。それを思い出させてくれた。



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