〈伊万里市黒川町花房〉

 

<お話を伺った人>

岩野誠さん(区長) 昭和17年生まれ(56)

   杉山信夫さん  大正 年生まれ(75)

   佐志重信さん  昭和19年生まれ(58)

   杉山仁さん   昭和5年生まれ(68)

<調査者>

印藤真哉(1LT98019) 

岩永崇史(1LT98018)

 

〈しこ名(カタカナ)一覧〉

シンヤ、シイノキヤマ、ジンレ(屋号?)

クラタニ、インキョブン、アナダ、

スゲダ、ミツシオ、ダルコバ

ノシロダ(苗代)、フナグラ、アナダ

ウエヒラダ、シタヒラダ、ドウエ

カシヤマ、ウエザクラ(上桜)(屋号?)、マツノオ(竹道の左斜め下)

 

〈要水源〉

 花房は山の方に位置するため、田圃の水は付近の

  (標高212m中伏)

川から引くことはせずに、湧水を使用している。その出水は、山の頂上付近にあり、とても透明で、私も手に触れ、口をゆすいだが、とても冷たくおいしかった。岩野さんのおっしゃることには、この水をうまく利用してこの辺りの田んなかを維持しているそうだ。(また板治川付近までが花房)

 

〈公民館にて〉

 昔花房はぎんざ(銀座?)であったが、地すべりの恐れがあったため散り散りになった。そののち地すべりの起きた土地は畑を作り利用されている。またこの地すべりは昭和28年の大水害に併発している。昭和3年に地すべり危険区域に指定され、地すべり防止工事が行われ、当時64万の費用がかかったそうだ。工事の目的としては、雨水が入らないように小水路を作ることにあった。

 昔の暮らしぶりについては、まず食生活から記す。

 

50年前の主食は、米と麦で、ひえは食べていなかったそうだ。その他、里芋、さつまいも、じゃがいもなどを主に食していた。また、釜は薪でたき、お米はおひつにたくさん入れておいて、余ると日陰に吊るしていた。生活用水は井戸水(市の水道使用せず)であるので貴重なものなのであろうか、使用後の茶碗などは棚に入れるだけで洗浄することは希であった。というのも今の一般家庭とは違い、個々人に専用の食器があったそうだ。米についてのエピソードがある。戦前は、強制的に20俵もの米を軍(米?)にとられていたそうだ。

 

 岩野さんたちが子供の頃は、よく働かされたそうだ。その具体例として、先程の薪について。風呂(ゴエモンブロ)も薪でたくので、かなりの薪が必要であった。そこで付近の山に子供らで集めに行っていたそうだ。もちろん、無料である。昔は今のように人工林ではなく、多くの木々があり、多くの枯れ木が落ちていたそうだ。また山に近いせいか、猪が田畑を荒らしに来るので、今でも秋には猪狩りを行っているそうだ。(今はそういう業種の人々に頼んでいるらしい)

 

 話は前後するが、生活用水の現在は、ボーリングした水を使用しているそうだ。(地下水をポンプで汲み上げている)

 

 私はこちらの四人方々が同級生のようにお互いお話なさっていたので、思わずそういう質問をしたところ、同じ小学校を卒業しているのだそうだ。その小学校は東黒川小学校といい、児童がいなくなったので最近(正確な年は聞きそびれた)廃校になった。そしてその廃校式にみなさんお出になったそうだ。現在は黒川小学校と統合された形になっている。

 

 村に電気がきたのは昭和3年頃で、プロパンガスがきたのは、もっとずっと後の昭和40年頃だそうだ。

 花房の人々は自給自足の生活が基本であるそうだ。

 耕運機、そしてトラクターが利用される前は、牛を利用していた。その名残か、散在する家々の側には牛舎が見られた。今は肥育して売りに出しているそうだ。多くの牛を肥育しているところで、二,三百頭ぐらい所有しているそうだ。

 

 昔の夏場は、日が長いため一日に何回も働いたそうだ。そのため、お腹がすき、昼ごはんと夕ごはんの間に食すこと、「ヒラガリ」をしていたそうだ。

 化学肥料が入る前は、糞や草を利用していたそうだ。

 

 昔の学校道は、家からほぼ直進していたそうで、「二、三人歩けば、もうそこが道になるけん、近かほうが良かろーが」と、もっともな意見をいただく。現在はやぶだらけになっているそうだ。

 

 岩野さん達が若い頃は、「若者宿」とか「青年宿」と呼ばれる家にみんなで集まっていたそうだ。そこではお酒などはなく、単に花見や、お話をしていたそうだが、核心に触れることはできなかった。(個人の家の2階を借りていた。)時々は男女で寝泊まりすることもあったそうだ。

 映画や芝居もある一定の場所で催され、時間はかかかるけれど、歩いて行っていたらしい。 

 

 ねずみ対策としては、大きな缶の中に米をいれ、密閉することをしていた。ただし、8〜10俵ぐらいまで入れることができ、その時中央の栓のところからオロナミンCぐらいの大きさの瓶を吊り下げて密閉した。この瓶の中には薬局で購入されたホルマリンが入っており(今はニンニクで代用)、その気化したもの害虫駆除も行われたそうだ。もちろん、缶の中一杯にならないときもあり、そのときは栓のところから竹をいれ、少しでも米のラインの近くまでこの瓶を固定させていたそうだ。

 

 1994年の大旱魃の時は、花房はそこまで被害がなく、むしろもっと昔の時に起きた旱魃の方が甚大であったそうだ。

 一番聞きづらかった質問が農業以外の現金収入であったが、昔は冬に和紙を作っていたらしい。今では公共事業に出向いておられるらしい。四人のうちの一人は、魚市場に朝早くから働いておられるそうだ。「みんな給料取りになってしもうて」と溜息まじりにお話しておられた。つくづく、農業で生活することの大変さを垣間見た気がした。

 

〈和紙の製造工程〉

原料:楮の木(カイモウと村の人々は呼んでいる。)

○作業に丸一日費やしていたそうだ。

12月に、夏栽培していた(田んぼの横に)カイモウ(ヒョロっと細長い)をカマできる。

・どでかい釜に水を大量に入れ、その中に切ったカイモウをぶち込み、2時間ぐらい蒸す。

・次に、その中から取り出し、楮の皮(カゴ)を剥ぐ。

残った中身は乾かして、よき燃料にしていた。

・カゴを乾燥させ、水に戻す。(この水は、冷たくてきれいな水である)

・竹を組み、イカダを作って、その上で水に先ほどのカゴをさらす。

・さらしたカゴと硫酸をどでかい甕に入れる。

また同時に、カゴを白くするため蛍光染料も入れる。

・カゴだけ取り出し、うすの中に入れきねでつく。−*

・網の中にグチョグチョにした*を入れ、川の水で洗う。(ドッポドッポ100150回ぐらい洗っていたとおっしゃっていた。)この行為をコアラと呼んでいるそうだ。(小洗いの略称か)

・オウレン(植物の名)の根を布につつみ、たたきつぶしてできた粘り液を混ぜてスゲタにさらす。

4日に一回乾燥させなければならない。

 岩野さん達は、この仕事(乾燥させる)が一番イヤだったそうだ。というのも、朝早くから起きて、まきをくべて、火をたき、(乾燥釜がある)一日中つきっきりであったからだそうだ。

唯一、焼きイモは食べられるのだがと、苦笑いなさっていた。

以上のような肯定を12月から34月まで行っていたそうだ。その他、タバコや蚕も栽培していたそうだ。(付加させていただければ、スゲタにさらすときのポイントは、冷たくきれいな水で仕上げて、とろみのある液体状にしておいた方が良い、とのことであった。)

 

 

〈感想〉

 1048 長尾橋に着き、まずは住宅地図を広げて現在地を確認。上下左右、ぐるぐる回して、ようやく目的地発見。地図道理に進むが、ぐねぐねと曲がった道であり、しかも傾斜の少々きつめな坂道である。加えて、日の光をもろに受け、気温も高い。汗だくである。しかし、なぜか心はどきどきして、楽しさを抑えきれない。木々はきれいだし、蝉時雨の中で私は歩いていたからだ。幸か不幸か車は来る気配もなく、空気もきれいだ。牛舎が前方に見えかかると、もうそこには何軒かの家々が目に入る。一人の男性が私たちを見つけ、「あんたたち車じゃなかとや」とのこと。公民館で待っていてくださったのだ。公民館には扇風機しかなかったが、高いところに位置していたので、割と涼しかった。お茶を出していただき、お昼には、和菓子と、押し寿司のようなものを買ってきていただいた。とてもおいしかった。岩野さんと杉山()さんのお二人が最初に熱心にお話くださり、お昼ごろに、農作業の休憩がてらに佐志さんと杉山()さんがいらっしゃった。このお二方も丁寧にさまざまなことを教えてくださった。時折私の事前準備の不備や、常識のなさが露呈してしまい、お世話してくださった方々にご迷惑をおかけいたしましたこと、今ここで改めて反省しております。しかし、何より、岩野さんには本当に感謝しております。急なお手紙にも十分な応対をしていただき、公民館を出た後、トラックで、出水のところまで連れて行ってくださったり、下りながらいろんなことを説明してくださった。カメラや録音機器は出来るだけ持っていったほうが良いと思ったのもその時である。また、帰り際には、甘夏みかん畑に行き、木に登ってのこぎりで切っておみやげとしてくださった。本当においしくて、ありがとうございました、の一言に尽きます。

 最後になりましたが、実地調査は本当に楽しかったです。そして、何より悔しかったです。事前準備をもっと丁寧に行っていれば、より実り多き調査結果となったはずなのに。これからも、この恐竜が続けばいいのになあと思いつつ、もっと自分を鍛えなければならないと律しております。この調査が、何かの役に立ってくれれば幸いです。ぜひ、今後も続けてください。

 私の歴史に携わる仕事をしたいという気持ちが一層強まった一日でした。この機会を作っていただいた服部先生に感謝しています。

                      19987月 文学部1年 岩永崇史 記

 

 「歩き・み・ふれる」まさに授業名通りの現地調査だった。私たちが行ったところは坂の上で標高212メートルもある花房の公民館だった。坂を上る途中、何度もこの道でいいのだろうかと思うほどだった。やっと坂を上りきると花房の公民館があり、岩野さん他3名の方がいらっしゃって東黒川小学校時代からのお話を聞いた。話を聞くうちに岩野さん達の生きてきた時代がどんなに厳しくて大変だったかを理解したと同時にそんな大変だった昔のことを明るく生き生きと話してくださった姿をとてもまぶしくうらやましく感じられもした。昔と今では生活様式など全く異なってしまったが、人がいて誰もが支えあって生きていくことは、基本的にはそんなに変わっていないような気がした。自然に囲まれて豊かに生きるか、自然を離れ裕福に生きるか、それは人それぞれ違うけれども今日花房に行ってきた自分としては自然と共存していきたいと思った。これは確かに佐賀から帰ってきた今だから、あるいは今だけそう思っているのかも知れない。でも、どれでも花房のような緑に囲まれたところに住みたいと思った。気持ちを大事にしていこうと思う。「人はいつか自然に帰る」この言葉が実現することを願って、機会があればまた「歩き・み・ふれ」ていきたいと思う。

1LT98019 印藤真哉

 

 

 



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