佐賀県唐津市肥前町瓜ケ坂
1AG98135■ 恒松高洋
1AG98149■ 中島康介
はじめに・・・
私たちは、歩き、み、ふれる歴史学(服部秀雄教授)の一環として、佐賀県東松浦郡肥前町瓜ヶ坂へ現地調査に行くことになった。そこでの田のしこ名を調べることを主な目的として、行動記録を添えつつレポートを書いた。とてもこの現地調査は苦労した。まず、何をしたらよいのか、しかも、しこ名といって理解していただけるか、という不安が私達の心を支配していたからである。そこはこのレポートを読んでもらいたい。私達の苦労と不安、またその後(調査終了後)の状態を読み取っていただければ幸いである。
(聞き取った古老)肥前町瓜ヶ坂
山添常五郎さん 明治42年生まれ
ハマヨさん 大正10年生まれ
〈しこ名一覧表〉
小字:平野山 しこ名:本田
小字:笹山 しこ名:本田
小字:春ノ田 しこ名:春ノ田
西角(ニシノカド)
ウエナド
小字:? しこ名:キシダカ
ニシムキ
小字:百田 しこ名:トノウラ
小字:本田 しこ名:本田
ツジノサカ(辻坂)
小字山添 しこ名:本田
ヤマゾエ(山添)
小字:広田 しこ名:ヒロタ
小字:番所 しこ名:バンドコロ
小字:狸平 しこ名:シライワ
ヒランヤマ
ヒラノヤマ
小字:平野 しこ名:ヒラノヤマ
ウサンクラ
セイシロウ
小字:立髪 しこ名:セイシロウ
タテガミ
小字:山頭 しこ名:ヤマガシラ
米について
[貯蔵]
米は、収穫後もみのままで蓄え、その後食べるときに精米しているそうである。これは昔から行われていたらしい。なぜかと理由を尋ねたところ、そうした方が質がいいからだという答えが返ってきた。
[肥料]
肥料は昔から金肥、牛馬の肥やしを使用していたらしい。私たちが瓜ヶ坂近辺を歩いていたとき、異臭がする土みたいなものを積んだ小型トラックが通りかかり、それが牛馬の肥やしだと確認することが出来た。
[売米]
米は農協へ売るということである。
しこ名について
私達の主な目的であるしこ名は小字とよく重なっていた。常五郎さんがしこ名として話してくれていたことより、しこ名を小字に利用したらしい。また、ホンデンとヤマゾエで米がよく取れることを強調していた。水の具合がすばらしいからだそうだ。
戦争について
瓜ヶ坂の近くに海があり、そこに造船所があったことに加えて、炭鉱まで備わっていたらしく、そこを狙って空襲が多発していたらしい。常五郎さんはフィリピンに戦闘員として渡っていたそうであるが、ハマヨさんは瓜ヶ坂で防空壕に頻繁に非難していたということであった。ハマヨさんがおっしゃるには、ひどい状態であったらしい。
現金収入について
米以外の作物について尋ねてみたところ、野菜を作っていたという答えが返ってきた。夏冬の野菜(かぼちゃ、なす、だいこん、にんじん・・・)を作っては唐津の市場へともって行き、売りさばいては現金を得ていたということである。
また、畑では20年前ぐらいまで果樹園、つまりみかんの栽培が盛んであったらしいが、今現在では、牧草を作っているということであった。というのも、瓜ヶ坂ではたいていの農家に牛が飼われているからだそうだ。私たちが驚くほど牛を良く見ることが出来た。
村での水害・干害について
この村では、笹山溜・瓜ヶ坂大溜・上場溜・瓜ヶ坂新田溜と4つの溜池を所持しているため、干害が起こることはほとんどなかったようである。しかし、山がちな地形に集落ならびに田が作られているため、20年に1度地滑りがあったらしい。常五郎さんが何度も強調して言うぐらいだから、状況はすさまじかったに違いない。また、地滑りが起こると、人命を奪うだけではなく、水害後は山の土が流れ込んでいるため、収穫が落ちたということである。最近は起こることはないそうである。
ちなみに、地滑りがよく起きた田はホンデンとヤマゾエである。
〈1日の行動記録〉
調査員(中島・恒松)はAM10:30頃、瓜ヶ坂入り口のバス停前に降ろされる。地元民に道を聞きつつ、瓜ヶ坂の集落をめざし、ひたすら歩く。現在地を相変わらず確認できなかったので、通りすがりの乗用車に道をたずねると、徒歩では集落までかなりの距離があるとのことで、乗せていってもらう。その親切な人の家から、区長さんに電話を掛け、今から訪れる旨を伝える。事前の段階で、一応手紙は出していたのだが、調査する日は老人が旅行に出かけていて、ほとんど村にいなかったが、何とか1人だけ90歳になろうかという村の最長老を紹介していただいた。AM11:30頃、山添常五郎さん、妻ハマヨさんと区長さんの奥さんも一緒に手伝ってもらいつつ聞き取り調査を開始する。さすがに、90歳ともなると、かなり昔のことまで知り尽くしているだろうと、期待を持つ。
しこ名という言葉の意味を説明するのに、かなり四苦八苦しながら調査を進める。記憶が遠い昔のことということもあって、思い出されるのに、時間がかかり、お昼時にかかってしまった。昼ごはんをとるために、いったん休憩を申し出て、調査員も昼食をとる。午前中に聞き取った調査を少し整理してみると、しこ名は小字と重なっているものが多く、もっと詳しく聞こうと思い直す。PM13:00頃から再度調査を開始する。水利の問題についてこのあたりは全く問題なくやってこれたらしい。隣の村とももめることなく、大きな4つの溜(ため池)を利用して農業を行ったという。ただ、この村では干害よりも水害が長年被害をもたらしていたと強調されていた。何度も何度も、村の丘陵部が崩れて、多数の死者を出したこともある、と恐ろしさを前面に出して話されていた。あと、戦争中の話や、採れた米の輸送方法などについて山添さんの妻、ハマヨさんからお話をうかがった。
もっと、多くの事柄をお聞きしたかったのだが、朝から2時間近くお話をうかがっていて、高齢のお体にはこれ以上はさし障りがあるのでは、と考え、調査を終えた。お礼を述べて、山添さん宅を後にし、帰りは時間の余裕が多少あったので、徒歩で集合場所へ向かった。帰り道、水を満々とたたえる水田を見て、この村の水の豊富さというものを実感した。思ったほど調査の成果は得られなかったが、お話をうかがった山添夫妻、そして手伝ってくださった区長さんの奥さんにはこの調査において非常にお世話になった。
おわりに・・・
私たちは今回佐賀県東松浦郡瓜ヶ坂という場所で人間の温かみを知った。いきなり見ず知らずの私たちを乗せてくれたおじさん、長老に電話してくれて、ついてきてくれた区長さんとその奥さん、めんどうくさがらず最初から最後まで丁寧に教えてくれた常五郎さんとハマヨさんなどとてもよくしていただいた。私たちは初めはなぜしこ名を聞くことがこれからの日本にとって大切なことなのだろうか?と思ったが、終わってみると、何か分かるような気がした。自由にのびのびと暮らしている老人を見るとうれしくなった。これからの私たちの人生において、瓜ヶ坂をたずねたことは、必ずやすばらしい体験となるにちがいない。