唐津市肥前町晴氣
調査者:1AG98210R 前田 明徳 1AG98246N 用貝 悠
聞き取りしたおじいさんの名前 生まれ 吉村利視(ヨシムラトシミ) 大正7年 井上兼一(イノウエカネイチ) 昭和6年 宮口崇 (ミヤク寸チタカシ) 鶴田昭松(ツルタシゲマツ) 1930年
しこ名一覧 田畑:小字 上口のうちに アラケ、ナベカマ(きれいな水が出ていた)、 ナメズ、コツポヤブ、タカノス 殿木場 イケンタ 長畑 ナガバタケ、ドンシタ、コダ(小田)、フダンモト 山: 上口 ムカエヤマ(向山) 殿木場 ノダヤマ 川: 長畑 ミズクレ川 他: 上口 尾山の道上、尾山の道下、ヒダカオオスミ 田ノ峰 ヒノモト(観音様がある場所:肥前中学校の南) 殿木場 ノダヤマ 調査地以外の場所 小字 長岩のうちに クズノモト 田尾 ドウメキ 磯道 ホウソウクリ 高尾 ウスイ 入野:町の西部に位置し、肥前町役場があり、行政の中心地として機能している、農業地帯で野菜、煙草、畜産が主。
一日の行動記録: 10:30に肥前町役場に到着し、午前中址口、山中の住民と会って話を聞く約束ができなかったため、直接、家を訪問して話を聞くことになった。まず、町役場から西へ行き農協のほうへ向ったが大きく立派な農業を営んでいるような家 があったので訪問した。 井上松一さん宅であり、田畑や昔の道の呼び名、あだ名を尋ねてみたが、「そういうものはない」「すべて小字名で呼んでいる」「数年前に農業をやめたので話せることはない」と、言われた。 それから、トラックと農業機械が置いてある井上俊之さん宅を訪れたが不在であり、その隣にある野菜畑で働いていたおじいさんに調査内容を説明すると、快く質問に答えてくれた。 鶴田昭松(1930年) 畑の前の路上で話をうかがったため、詳しくは調査できなかったが、しこ名でヤマノカミ〔山の上〕、ハタケダという名を聞いたが、場所を確定できなかった。圃場整備によってどう変わりましたか、と尋ねると、昔は小さな畑で機械も入れなかったけれども、今は機械も入れて楽になり、便利になった、と言われた。しかし、圃場整備を行ったときには農家の間での利害関係についてや、責任問題についてさまざまなもめごとがあったらしい。例えば、圃場整備の後に農家の人々のやりとりで自分の所有する土地が拡大することもあったが、その結果、土地が縮小し、農業経営を続けるのが難しくなったため自殺した人もいたそうだという話も聞いた。 私は次男で農業をずっとしていたわけではかので、田や畑の名はよく分からないから、と言われて、殿木場の吉村利視さんを紹介してもらった。 吉村利視(大正7年) まず始めに、屋号をたずねてみると自分の家には(ジブダ)と付いている。また、宮口崇さん宅は(ナガバタケ)、上口の井上百合子さん宅は(コウジヤ)、他に、(タメノウエ)、(イケノハシ)もあった。(駄竹のナヤ)と言う家が、一番の大地主であり金持ちであったらしいが、現在は衰退してしまった。 また、玄海町のキリゴの中央にある一番古い家をボタンヤと、よんでいた。 稗木場、出口、黒岩の3ケ所をあわせて(ツルマキダンチ)と呼んでいる。 また、上口が、一番早く発展したそうだ。 「ウチの家がここになわったものの中では一番はやかと」「ここに来たときは、まだ誰もこのあたりには、住んどらんかった。」とも、おっしゃった。昔、タマシマ、セブリから千石船に乗った商人が、ナヤ(納屋)にやってきて住みつい たそうだ。 水が涌き出ている場所を、シジュウデ(四十出)と呼んでいて水はその場所に頼っているが、1994年(平成6年)などの水不足のときには、ハツトマキダメから水を、お金で買っていたそうだ。その値段を尋ねてみたけれども、今は、息子にすべてを任せているため、詳しい事は分からないとおっしゃった。 井上兼一(昭和六年) 始めにしこ名のことを尋ねると「しこ名というと、人に付いている別の呼び名だったらあるけどね。山中のほうの人々には、だいたい皆、二つの名前を持っていてね、本名とあだ名と言うか、その土地の人々が分かるような名前を持っているんだよ。例えば、バイオリンを習っていて上手な人がいたら、バイオリンのバイをとって、自分の名の一字とくっつけて名前が作られたりするんだ。それで呼んでも、皆分かるんだよ。」 田畑に付いている呼び名について尋ねると、「あんまり呼び名というものはついてないねえ。ほとんど小字名で呼んでいるから。」という答えだった 田代溜が以前あった所はコッポヤブ、田代溜の北をアラケ、ナベカマ、ナメズと呼んでいた。 「昔、僕が小さい頃、遊びまわってのどが乾いたときなんかは、ナべカマで湧き水が出ていたから、ナベカマまで水を飲みにいってたよ。」 屋号について 井上義弘、井上延吾さん宅の2軒をカミガワ(神川)鶴田昭松、井上正人、江川三治、井上富士夫、井上育志、江川政義さんの、5・6軒を カミヤマ(神山)という。 宮口崇さんの話 井上兼一さんの紹介にあった、長畑に住んでいらっしゃる元町会議員の宮口崇さんの家を訪ね話を聞いた。宮口さんも他の人と同様に、個々の田に付けたあだ名といったものは特別なものがない限りはなくて、正式な小字名でよび、小字何々のどこの方とかいっていてあまり御存知なかった。 御存知だったものでは、長畑のドンシタ、コダ(小田)フダンモト、ミズクレ川があった。 宮口さん宅は長畑にあるが、もともと長畑という地名は存在せず、これは宮口さんの家の前の畑を宮口家では長畑とよび、町の人々も宮口家のことを指してナガバタケとよんでいたことから始まった。そしてその名が広まり、「長畑」と言うバス停ができたことによって、長畑と言う小字が確立した。 宮口家はかなり昔から今のところに存在して、古い書物、巻物、掛け軸などがたくさんあり、倉庫で保管されているということで、それらを表に一覧としてまとめてあった。書物の中で特に古いものになると元禄時代のものであった。また祖先の中には仏像、観音様を作る人もいたらしく、その写真を見せてもらい、肥前中学校付近の田ノ峰のところをヒノモトと呼んでいたがそこにある観音様の背中側や台座の下に文章でいろいろ書いてあったり、彫ってあったりしてそこに名前もあった。 また、小字磯道ではたくさんの矢じりが掘り出された。だから、そこの農家の人たちは少し畑を耕したくらいで矢じりがゴロゴロ出てきたのだと、言っていたそうだ。 その日の夜に寄合があったそうで、だから畑の名前や田んぼの名前はその寄合に出るのが一番いいだろうとおっしやつた。僕たちが突然訪れたため、その名前を思い出したり準備することができなかった、ともおっしゃった。 感想 実際に山地にある農村を調査してみて感じたことは、これから町に残っていく若者がますます少なくなるだろうし、実際に町を歩いてみて、町には若者が少ないなあと思った。 しこ名など、普段意識して使っているものではないため、本当に、説明するのが難しかった。だから、大勢の人が集まり、普通の会話をして、自分の畑の農作物の調子などについて話している寄合などに行ったほうが一番手っ取り早いと思った。 電話できちんとアポイントをとり、事情をよく説明した上で家を訪れないと、納得してもらうまでにかかる説明の時間がもったいなくて、調査が思うように進まなかった。だが、突然の訪問にも、また、道行く人々に尋ねてみた場合でも、皆親切で、快く僕らの質問することに答えてくれたことは、とてもうれしかった。 |