佐賀県唐津市肥前町菖津 1EC98178■ 有澤のぶ子 1EC98198■ 國武ひとみ ・しこ名というのは特になく、字名で田畑のことを言っているということです。 ・網代(網を引くところの名前)
前日の夕方に区長さんに電話をして、午前中ならということでアポイントを取った。現地についてまず思ったことは、すごく自然が多く、また、非常に静かな村だということだ。そして村の人々が皆すごくいい人だった。区長さんは自分は昔のことにはあまり詳しくない、よく分からないと、昔のことに詳しいおじいさんを連れてきてくれていた。 私たちはまずしこ名について尋ねてみた。しかし、私たちの訪れた菖津という村は田んぼが少なく、しこ名というものは特になく、字名で田畑のことを言っているということだった。この村は半農半漁の村だそうだ。 次に海のことについて尋ねてみた。網代というものがあると、言われ、それについて話を聞いた。網代とは網を引くところにつけた名前で、表にまとめたとおり、だいたい1つの小字に1つはあるようだ。 また、この村の漁業はいりこと真珠が中心だそうだ。昔はこの海でもマグロ、サバ、アジ、オオバイワシなど多くの魚が獲れたということだが、今ではカタクチイワシなどが主だそうだ。これらの魚が獲れなくなった理由を尋ねてみると、潮の流れが変化したことや、乱獲が原因だろうと言われた。漁法は船か曳きあみだということだ。 また、昔はくじらやイルカも捕れたそうだ。そのような大型のものが来たときは、村中でお祭り騒ぎになって獲ったそうだ。 連絡手段として「のろし」をつかっていたころもあったそうだ。たきぎを集めて煙をあげる、昔々には使ったそうだが、現在では「のろし」を使うことなど全くなく、携帯電話が主流だということだ。 さらに、浅瀬や古道についても尋ねてみた。 浅瀬はタノシタとカンゴイワの間に海岸から20〜30mほど出ているものがありオキセ(沖瀬)と言っているそうだ。 また、古道は明治27年〜28年にできた4m幅くらいの「里道」があったそうだ。現在では町道ができ、この道を使うことはなくなったそうだ。 私たちの訪れた菖津という村の呼び名は部落の名前で、江戸時代ぐらいから使われていたのではないか、ということだった。昭和7,8年ごろ大鶴に炭坑ができ、終戦後が一番盛んだったそうだ。菖津は海岸にそのボタでうめられた土地だということだ。一番盛んだったころには、多くの人が外から働きに来て、人口も4000人くらいいたそうだ。その炭坑も、石炭から油へのエネルギー転換期ころから経営不振におちいり、閉山したということである。そして、そのころから人口が減って言ったそうだ。 非常に詳しい話を聞くことができました。以上が私たちの調査した内容です。 |