『佐賀県肥前町杉野浦の現地調査』

 

理学部生物学科2年 1sc98 柏原 聖徳

〃   1sc98 北村 貴司

〃   1sc98 八木 雅治

 

 

・調査に協力して下さった方々(順不同、敬称略)

 

  山下 春光 【杉野浦肥前町区長】  

  渡辺 進  (生年月日:大正14年 2月 4日)

  前田 守  (生年月日:大正14年 6月17日)

  前田 又男 (生年月日:大正 6年 1月16日)

  田中 正男 (生年月日:昭和15年 7月21日)

  Special thank

  田中 義人 教授 【九州大学物理学科卒、長崎総合科学大学在籍】

    地元である杉野浦周辺の戦国時代~江戸時代の歴史を調査している方。

   山下さんの紹介で、杉野浦に関する資料を準備していただいた。

 

 

・一日の行動記録

 

 7月11日(日)

  朝 09時30分 福岡を、車で出発。

    12時00分 杉野浦到着。

          村の集会の最中らしく、13:30まで暇を潰す。

  昼 01時30分 山下さんと面会。

           寺(?神社)で集会あとの宴会中に、上記の方々からお話を聞く。

    03時00分 寺をあとにして、田中義人さんの家に招待される。

    04時00分 杉野浦を出て、平畑に向かう。

    04時05分 平畑到着。お話を聞く。

    04時45分 平畑を出る。

  夕 07時30分 福岡に帰還。

 

村の歴史
江戸時代

 

 今では切木と杉野浦はどちらも伊万里の方に分類されているが、その昔、杉野浦は唐津の方に分類されていた。

 唐津藩である間、杉野浦は貿易を許され、主に平戸との交易が盛んだった。そのころの杉野浦の村の情報として下記のような記録が残されている。

 情報

 

田畑高―六拾九石四斗四合

家―――二十一戸

人数――九十九人

船―――大、一艘

     小、二艘

     (ミカドヤの水深―三尋五尺[6mちょっと]

当時の海岸線はミカドヤ辺りまであった。

 地名

 

 遠見番所=海から平戸の殿様が来るのを見ていた所。

 堂の上=神社があった所、豊臣秀吉に追い詰められた武士達の自害した場所。

 

明治

 

 明治時代になると、海を埋め立てて新田を作り農地が広がった。

その頃の杉野浦の村の情報は下記のような記録が残されている。

 情報

家――二十二戸

神社―二個(若宮と田島)

人数―男、六十人

    女、五十六人  計、百十六人(平民のみ)

牛―二十五頭

 地名

 

 金毘羅様=肥前町で一番高い山(高尾山)の頂上。錨を掲げた。

 

大正

 

得られた情報なし。

 

昭和

 

 昭和30年代になると、長崎の福島町の炭鉱へ出稼ぎに行く者が多くなる。

 それにつれて、専業農家も自給自足の農業だったが、みかんなどの栽培を始め、地場産業として最盛期を迎える。しかしそれも今では衰退化してきている。

 

 昭和50年代になると、地元の原石を使った、石材加工業が発展してくる。

 

平成

 

 現在では、兼業農家がほとんどで、村の経済は厳しい状況であり、山の中という厳しい交通事情のせいもあって過疎化は進む一方である。肥前町全体の人口で見ても、五年前は11,600人いたのに対して、現在は9,600人である。

 

・水利について

質問:村の水はどこから、どのようにとり入れたり、出したりしているのか。

   又、そのときどのような取り決めがあるか。

答え:溜池から水を引いてくる。平等に水を分けるため村民が入れ代わりで、

   お金を貰って、水番(農水の番)をした。

   また、ボーリングして、地下水をくみ上げたりした。

 

質問:1994年の大旱魃をどうやってのり切ったのか。

答え:どうも、その年は、問題なかったらしい。

   ただ、昭和15年にあった大旱魃のとき、米は、ほとんど獲れず、

   ほぼ全滅だった。一部、海岸沿いの湿地帯の農家でのみ、涌き水が出るため

   米が獲れた。

 

 

・昔の暮らしについて

 杉野浦では、以前米を中心に作っていた。山の村なので、塩や魚などを隣りの村から米、野菜との物々交換によって手に入れていた。また、冬場になると、山から取ってきて、作って乾燥させておいた薪を隣りの村々に売り出しに行くことで、農業以外の、現金での収入を得ていた。

 時代が変わると、米の生産による収入では、限界があるため裏作やみかんの栽培などにも着手するようになった。(みかんの前にキンチャカンに手を付けるが失敗したらしい。)裏作では、菜種や麦を、または綿を栽培し、その糸から着物、作業服、(当時は、ハンテンのようなもの)を作って売ったりもしていた。また、隣り村まで土建屋や漁業へ働きに出る者もいた。

 電気は、その設備のために費用がかなりかかり、需要もさほどなかったため、村に電気が来るようになったのは結構遅くなってからだった。(アリウラの水力発電所から来た。)

 プロパンガスが村に普及しだしたのは、まだごく最近のことで、それまでは薪を燃やして火を起こしていた。

 

 若者が集まって遊べるのは、盆踊りや村芝居などがあるときの交流だけだった。戦時中だったということも影響していたから。また、祭りという程のものでもないが、村での寄り合いで集まって、そこで食べたり飲んだりしながら、語り合うことは今でもやっている。

(昔は高価な酒は買えないので、焼酎本数決めてその分だけで飲んでいた。)

 田畑の耕作には家畜としての牛(バクロウ)が大変重要だった。どの農家でも1~2頭は所有しており、田畑での労働力としてはもちろん、隣り村までの貿易、物々交換など際に荷物の運搬に利用したり、また子牛を飼育して売ることで稼ぎにしていた。

 以前は村で共有の部落の土地もあり、そこから薪を拾って来たりしていたが、終戦後の土地開放のため共有地としては使えなくなり、組合組織で分けた。

 

・村のこれから

 昔と違い、今の時代はグローバル化の流れに乗り遅れないよう、農家も若い人達の科学的な技術も学んでいかなくてはならず、柔軟な考えが必要である。例えば、みかんの出荷も、1度ではなく、4月中旬・盆前・盆明け、と能率的に3度に渡って出荷をする。

 

・しこ名(カタカナ)一覧

村の名前:杉野浦

小字名

場所

しこ名

ウワバ(上場)

溜池

ウワバダメ(上場溜)

モチダ

(持田、?餅田)

田畑

ノナカ、

カワノウエ

溜池

イワモトダメ(岩モト溜)

ハタケダ(畑ヶ田)

田畑

ナキリワラ

町内の

地名

ボウズノウラ[墓場の裏]

ミカドヤ(?三角ヤ)[三つ角の所]

シンデン(新田)

内海

ウチウミ(内海)、

ナカウミ(中海)

水路

イビノクチ

弁天様

オキグチ(沖口)

田畑

ドウノウエ(堂の上)

その他

バンドコロ(番所)

ウシガミサマ(牛神様)

その他

チャガマイシ

海、海岸

アマジ、

ミチギレ

カワハラ(河原)

町内の

地名

チンノウエ[昔、鍛冶屋のあった所の上]

キンノキ、

ヤクバ(役場)[昔、役場があった所]

ミズノウラ(水ノ裏)

田畑

ナカノ

ウマンタン(馬谷)

ミズノウラ

ウウビラ(大平)

溜池

上溜

ハヅル(羽鶴)

オオラノハマ

その他1※1

トシャクバナ(渡錫鼻)

その他2※2

田畑

ツナカケ(綱掛)

平畑

ヒラハタケ(平畑)

田畑

ヒラハタケ(平畑)

(田畑は少なく、一帯をヒラハタケと呼ぶ)

小字図に名前が記載されてなかった地名は、その他1.2とした。

 ※1.シンデンのうえ辺り。

 ※2.ウウビラのうえ辺り。

 


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