歩き・見・触れる歴史学 実地調査

<調査地域> 大岡浦

<調査日>  1998627日(土)

<詞査者>  1AG98234  門 宏明

1AG98245  湯田 直樹

<レポート>

1. まず、バスを降りてから大浦岡の端から端まで行ってみることにした。途中、公民館を訪ねてみるが、誰もいなかった。天気が悪かったせいか道を歩く人もなく、静かな所である。大浦岡の端まで来た時、洗濯をしていた殿川さんのお宅にうかがった。

調査相手:殿川さん 生まれた年聞き忘れた(60位)

殿川さんは別の場所からここへ嫁いできたそうであまり昔の事は良く分からないということでした。それでも大浦岡の南方の田のことを「東の田」「西の田」と呼び分けていた。また、北方には「殿のもん」と呼ばれる所があり、そこには昔どこかの殿様が出城を作っていたということを教えていただきました。

 

2. 次に、大浦岡の昔について詳しい方を二人殿川さんに教えていただいた。そのうちの一人である古河さんのお宅にうかがうことにした。

調査相手:古河キミエさん

生まれた年:大正十四年生まれ

◆ <村の名前>

 元々は大浦岡、大浦浜という区別はなく、まとめて大浦と呼んで

いたが、海側を大浦浜、山側を大浦岡と呼ぶようになったそうです。

◆ <村の水利>

 大浦岡の水は今も昔も湧き水を使用する事が多いそうです。大浦岡は大変せまい地域ですが、56軒に一つの割合で湧き水をくめる所があるそうです。また、それだけでなく、大浦溜からも水をひいているそうです。この大浦溜の水は唐津から水を買ってきたそうです。1994年の水不足のときは近隣の町では大変苦労したそうですが、大浦岡は湧き水で十分にしのげたそうです。過去には周辺の町では水争いがあったそうですが大浦岡は湧き水のおかげでそんなにおおきな争いにならなかったそうです。当然時間給水もなかったそうです。

◆ <村の耕地>

 田は一見、一様に斜面に広がっているように見えましたが、ここ大浦岡の田にも等級がつけられていたそうです。斜面の下の方には海があるので斜面の上方と下方でその等級の差がつけられていたそうです。また、村共有の山林は大浦岡の北方にあり、薪もそこからとるようです。

◆ <村の道>

 今は舗装されたきれいなアスファルトの道があり僕たちもこの道を通って大浦岡に入ってきたのですが、この道はほんの2年前ほどにできたそうです。この道ができる前は今と同じ所に、いまよりも細い道が学校道としてあったそうです。

<米の保存>

 田でとれた米は定められた保管所に持って行きます。自分の家で必要な分はそこから持ってきているそうです。

<米以外の収入>

 大浦岡は田が多いですが、昔は米以外に小麦・大麦・はだかなどを栽培いていたそうです。現在は大麦・はだかなどは全く栽培していないそうですが小麦は少し栽培しているそうです。また、大浦岡の北辺ではタバコ・馬鈴薯などの栽培が行われているそうです。

 

3. 古河さんにお礼を言って家を出ると、もう昼だったのでひとまず一時まで休憩をとった。そして、次に宮崎さんのお宅を訪ねることにした。宮崎さんのお宅は大浦岡の殿川さん宅とは逆の端にありました。ところが、呼びかけても誰も出て来られなかった。いくあてがなくなり、雨まで少し降ってきて途方に暮れていたが、宮崎さんのお宅の前の家には人の気配がしたので訪ねてみる事にした。

 調査相手:大久保さん

 年齢:45

大浦岡の生産組合長さんが大久保啓吾さんというので、もしかしたらこ

の大久保さんはご親類の方かもしれないと思い訪ねてみた。まだ若い方

でしたが大浦岡のしこ名を今までの中で−番良く知っておられた。あま

り長くお話できなくてしこ名を聞くにとどまった。

しこ名:カシヤマ・ムリ・コウゲツ・ヒノクチ・ホンノモト・

   トウノモノ・ニシノタ・ヒガシノタ

調査を終えて

大浦岡は人口が少なく高齢者と言っても80歳や90歳の方には会う事ができなかった。(宮崎さんは90歳だったが不在)50歳や60歳の人はほとんどしこ名を知らないようでした。これは、大浦岡の田が斜面上にまとまってあるために、特に田を呼び分ける必要がなかったのかもいれないと思いました。あるいは高齢者が少ないため口伝がもう途絶えつつあるのかもしれない。佐賀には2人とも初めてであったが、なんだか不思議な地形でした。山と海が接近して眺めが良くすごく気持ちがよかった。



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